【八十神の舞】神々の舞う地、神代市を舞台につむがれる物語。

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2009年08月23日

【Real-Side】もう一つの最終話『ザ・ファイナル』

 
東城神詞の死に、彼の同僚達は一様に動揺していたが、中でもそれが顕著に現われたのは、普段、彼と仲が良かったとは決して言えない倉本奈那美であった。
先程までと比べ、明らかに動きが鈍い。
遠距離攻撃の照準は合わず、近距離の敵にも、うまくダメージを与えることが出来なくなっていた。
「あっ……」
気付いた時には遅い。Aシリーズの剣が彼女に向けて振りかざされている。
「あぶな……」
その剣は、御名神あずみがなんとか弾き飛ばし、倉本は一命を取り留めた。
「……御名神さ…」
ありがとう、そう言おうとした倉本に、御名神は言葉をかぶせる。
「死にたいの? 東城くんみたいに」
今まで聞いたことのない、低く威圧感のある声で淡々と問う御名神に、倉本は言葉が出ない。
「全員…生き残るって、約束したのに」
御名神は、憤っていた。もちろん、人一倍優しい彼女が東城の死を悲しまない訳はない。だが、その悲しみを今表に出せば、涙を流してしまえば、その悲しみのあまりに自分が戦闘不能になることを、無意識的に判っているのだ。
それを察した新堂が、倉本に言う。
「…倉本君、あずみの言う通りだ。この場で、これ以上の犠牲者を出す訳にはいかない」「…わかって…います……」
冷静さを何とか取り戻した倉本は、彼女本来の高い戦闘能力を以て、敵を確実に倒してゆく。
その頃、東城神詞の死体の傍らに立ち、多数のAシリーズと膠着状態を続けていたサタンが、先程東城を手に掛けたその左手の鋭利な爪で、己れの右腕を切り裂いた。白い膚は死臭を放つ黒い血液に染まり、そしてその血液は瞬時に黒い霧となって彼らのいるSSH社ビルエントランスホールに充満していく。いや、エントランスホールは最上階まで吹き抜けになっているため、黒い霧は上へ、上へと侵食していく。
「…黒い霧?」
「………これは…」
黒い霧に触れたAシリーズが、次々にその動きを停止してゆく。
「何だ…?」
E-9スーツに身を包んだ新堂達には、何の異常もない。
黒い霧はビル全体にその死臭を拡げていた。生物には、何の害もない。ただ、1から9までの階級に関係なく全てのAシリーズにとって、その存在理由を根底から覆される状況であるのだった。
死臭はほんの一瞬で、空気の波にさらわれて薄まり、やがて消失する。
その正体に最初に気付いた新堂は、思わずその名を口に出していた。
「まさか…FDV666!?」
それらは間もなく…全てのAシリーズへの感染を確認されると共に、〈発病〉する。
それは、ミカエルをはじめとする全ての天使達…Aシリーズが藤守ミサヲの悪魔の帝国の支配下に入るということを意味する。
この世に君臨した支配者ミカエルに反旗を翻す二つの反乱軍に、明暗を分かたれる時が訪れた。
天使達は、天国より堕とされ、アンチマリアの…藤守ミサヲの手足となった。
黒い霧の完全に晴れる頃には、サタンと対峙していたAシリーズまでも、全てがサタンに統率され、新堂達に襲いかかってきた。
新堂らに、人間に残された最後の希望は、DWにすまう乙夏達だけであった。

新堂の耳元ではまだ、歪んだ賛美歌が、止まない。

☆   ★   ☆

サタンが彼の身を流れる黒色の血液…つまり〈FDV666〉を散布し、計画通り世界中の、全てのAシリーズ…いや、今日までの支配者ミカエルを含む全ての天使を藤守ミサヲが支配することが、ほぼ確実となった。
研究室内には十を越える数のディスプレイが設置され、その中のひとつが、FDV666が全てのAシリーズに感染、計画の次の段階に移れるようになったことを告げていた。 藤守は、少しのキー操作で、FDV666の〈発病〉を実行に移す。FVD666は、コンピューター・ウイルスでありながら、サタンの生体内で血球として生きている、新型のウイルスである。その血球は、体外に出るとAシリーズに感染する病原体となる。
あとは、ウイルスの進行を待つだけだ。実際には、待つ程の時間はかからない。
一秒ごとにそのウイルスは〈症状〉を進行させる。
最初の一秒で、感染した全てのAシリーズは、その永久原子を書き換えられる。この時点で、彼らはミカエルら七大天使にとっての敵となり、藤守にとっての兵士となる。
次の一秒で、Aシリーズは七大天使に対して同時ハッキングを行なう。いかに天使達といえど、幾千もの同時ハッキングに対して対抗し得る情報処理能力はない。
栄光の天使達が、次々と、天界から堕ちてゆく。
〈ラグエル、堕天〉
〈ウリエル、堕天〉〈ラファエル、堕天〉
ディスプレイはめまぐるしく切り替わり、堕ちていく大天使達の名を連ねてゆく。
〈レミエル、堕天〉〈サカラエル、堕天〉
〈ガブリエル、堕天〉
そして、ディスプレイは藤守ミサヲに、汝は王なりと告げる。
〈ミカエル、堕天〉
その文字を確認すると、さして興味もなさそうに彼女は他のディスプレイに視線を移した。そこには、SSH社での、サタンと彼に従う多くのAシリーズ、それに新堂達DWチームの姿があった。
黒い霧は晴れ、双子のようによく似た二人の男の、一人は威風堂々と立ち、一人はその足元で死体となって居るのも、よく見える。
「魔王……彼の最初の使命は、父親を殺すことだった」
真枝神曲の、独白ともつかぬ言葉に、藤守は淡々と言葉を返した。
「彼はそれを果たし、そして第二の使命も果たしたわ」
「彼の第一の使命………それは結局、君自身の迷いを断つために過ぎないんだね。藤守……」
真枝は、東城神詞の死体の映像に目を向けたまま動かない藤守ミサヲに、幻滅のニュアンスを込めた皮肉として、その言葉を贈った。
「私がそんな感傷にひたる女に見えるなら、あなたの近眼もだいぶ進行したんじゃなくて? 眼鏡の買い替えをお薦めするわ」
振り返って真枝に悠然とした微笑を向けた女は、言葉を続ける。
化粧気の無い顔はしかし薄闇の中で透ける白い膚を持ち、微笑んだその目は右目よりも左目をより細め、ディスプレイからの薄明るい蒼い光が、美しいアシメトリィをさらに際立たせていた。
「東城神詞は、二人もいらない。ただそれだけよ。方舟に乗って救われるのは、より救う価値のある方……ただの人間である〈父親〉の方は、もう用済みなの」
冷酷さを込めたその言葉と裏腹に、彼女の微笑が、歪む。眉根を寄せ、唇を噛んで、内部から込み上げる何かを抑制しようとする。
「生憎、眼鏡は最近買い替えたばかりでね…。藤守、君が本当に救いたかったのは、今君が用済みと言った、〈父親〉の方の…オリジナルの東城神詞のはずだ」
「……馬…鹿……言わない…で」
とぎれとぎれに、しかしまだ強さを保とうとする否定の言葉。
それを受け、真枝は冷淡に、じゃあ、と続ける。
「今、君は何故泣いている?」
かつて、PPTという小さな地方出版社にいた頃も、SSH技術開発部三課にいた頃も見たことの無かったその女の涙に、真枝は今、直面していた。
「本当に、君は迷いを断ち切ることが出来たのか?」
「私は……始めから迷ってなど居ないわ」
俯いた藤守に、真枝は来訪の目的を告げる。
「藤守、私は、君を殺しに来たのだよ」
「無駄なことよ…その前に……私の手足となったAシリーズ達か…それともこの研究室のセキュリティ・システムが…あなたを殺すわ…」
構わないよ、と真枝はかぶりを振った。
「世界の支配者になるつもりはないからな。私は、ただ……」
分厚い眼鏡の奥の瞳が、涙を拭って再び女王に成り切ろうとする女を捕らえる。
「尊氏の敵討ちがしたいだけさ……」
「……東城神詞のエイリアス…その架空の存在の、それも、始めから設定されていた運命の為に、此処に来たというの…?」
「君が〈母親〉という名を持つのも意外なことだったが……私も、これでも尊氏と信濃の父親なのでね…君のことを、許すことが出来ない」
あらかじめ運命付けられた、計算ずくの消滅だったとしても、だ。
彼はそう付け加え、懐から拳銃を取り出すと、藤守に銃口を向けた。
しかし、死ぬのは彼女ではない。引き金に指を掛けた瞬間、真枝は死ぬ。女王たる藤守ミサヲを守護するセキュリティ・システムが作動するためである。
そしてそれを予期しながらも、引き金を引くことを選択する真枝は、尚、喋り続けている。
「それにしても、なんという皮肉な敵討ちだろう。私は、尊氏が消滅する前に、彼の敵を討つ為に出掛けている。その上、敵に直面してこうして銃口を向けていようとも、死ぬのは私の方なのだからな」
「そこまで判っているなら、手榴弾でも爆弾でも持ってくれば、私も殺せたでしょうに。そうすれば、少しは貴方の死も報われたわ」
その言葉に、真枝は苦笑する。
「君と心中なんて、私はごめんだな」
「私もよ」
これから死に逝く真枝に、藤守は餞を送る。
「貴方の娘、強い子ね。片割れを失くして、貴方も居なくて、それでも戦おうとしている」
常にDWを映しているディスプレイに、信濃とゴーレムの姿があった。その一瞬、真枝は藤守から眼を離した。
といっても、彼女は特に動いた様子もなく、銃口を向けられたまま椅子に座っているだけだ。
「信濃は…いつか君達の悪魔の帝国と戦おうとするだろう。せいぜい気を付けることだな。君が愛し、そして殺した彼の死を、無駄なものにしない為にも」
「……そうね」
言われて、藤守は微笑み、別れを告げる。
「さようなら。真枝神曲」
真枝によって、引き金が引かれた。
死んだ。
真枝ではなく、藤守が。
胸に銃弾を受けて。
真枝は、生きている。
彼の脳が、事実をゆっくりと受け入れる。 先刻、彼が眼を離した一瞬の隙に、彼女はセキュリティを解除したのに違いない。
自分を殺させるために。

ディスプレイにはSSH社ビル内の戦いの様子が映し出されている。なにか置き去りにされたような感覚を抱いて茫然とする真枝を無視して、世界は無情に、平然と時を刻んでゆく。
「哀れだな…君も、彼も……無駄死にじゃないか」

☆   ★   ☆

藤守ミサヲがサタンを産んだ研究室には、彼女が椅子に座ったまま死んでいて、少し離れた処で真枝神曲が茫然として立ち尽くしている。
その研究室に向かって、ひとつ、足音が近づいて来る。
『私は……死んだはず…』
それに気付いたのは、藤守ミサヲだった。 自分が既に死体となっていることを知りながらも、何故かその意識は足音に気付いていた。
『夢を…見てるのかしら……』
足音はドアの前で一旦止まり、勢い良くドアが開け放たれる。
心臓を撃ち抜かれた身体は、動くはずもない。だが、その目は来訪者をとらえた。
『……サタン…………?』
「いいザマじゃねえか、ミサヲ」
『……違う……神詞……』
自分より先に死んだはずの…彼女がサタンに殺させたはずの、東城神詞だった。
邪魔だ馬鹿、と毒づきながら真枝の脇を通り、椅子に座って天井を仰いで死んでいる彼女の頬に手を触れる。
「長かったぜ、藤守技術開発部三課課長。お前がいなくなってからの二年……」
東城は、かつて彼女がその職に就いていた時には一度も口にしなかったその肩書きで彼女を呼び、生命活動の完全に停止したはずの、しかし何故か意識を持った藤守ミサヲの唇に、己れの唇を重ねた。
「行こうぜ、ミサヲ」
ディスプレイに映し出される、現実の喧騒には、東城は見向きもしない。
「エスコートしてやるよ。地獄まで、な」
斯くして、この研究室で、彼ら二人の物語は終わる。安っぽいロマンチシズムと血に彩られた、最後まで素直になれなかった者達の、夢物語として。

☆   ★   ☆

Aシリーズの動きに、変化が生じた、と気付いたのは、妙崎建だった。
「新堂主任……Aシリーズの統率が乱れた、そんな感じがしませんか?」
「……言われてみればそうだな…」
戦いを続けながらも、その理由を模索すると、ひとつの考えに思い至る。納得しかねる答えだが、それ以外にそれらしい理由が思いつかないのも確かだった。
「…あくまで推測だが、藤守ミサヲが死んだのかも知れない」
〈FDV666〉は、Aシリーズを藤守ミサヲの支配下におくウィルスだった。あくまでも、ミサヲの支配下だ。Aシリーズにとって、彼女の息子たるサタンの統率は、サタンの上にミサヲが存在するからこそ絶対的なものだったのである。
もしも仮にミサヲが死亡したとすると、Aシリーズは統率者を失い、誰の指示を仰ぐべきか判らなくなっているという可能性がある。二者択一……ミカエルか、サタンか。どちらを統率者とするか。
おそらくは、ミカエルが再びAシリーズの統率者となる確率が高い。
そう、新堂は考える。
そしてそれは現実となった。
一体のAシリーズが、サタンに攻撃を仕掛けたのである。
「……再び…ミカエルが王となったか」
新堂はそう呟き、サタンの足元に倒れたままの、かつて東城神詞であった死体をみて、彼を殺させた、藤守ミサヲを想った。
『……王となることよりも…ミカエルの支配からの脱出よりも…東城の後を追うことを選んだか……』
彼女は、一度は世界の殆どを手中におさめながらも、それを放棄した。自らの安息を求め、死に逃げたとも言えるであろう。
Aシリーズの襲撃を受け、サタンが一時退却を決意し、黒い翼を広げる。
と同時に、彼を中心にに大きな斥力がかかり、Aシリーズは粉砕されながら壁に叩きつけられた。新堂達も、E-9スーツに守られて怪我はないものの、スーツごと壁際に追いやられていた。
いつの間にか、サタンの姿は無い。
一瞬で無数のAシリーズを壊滅させたサタンの戦闘…というより殲滅能力にぞっとしながらも、藤守亡き今、自分達の敵はミカエルであることを、新堂は痛感していた。

☆   ★   ☆

『ねえ、陽洸君とQZLちゃんの意識が戻ったみたいよ』
凪喪憂子というナビゲーターの言葉を聞いて、乙夏=モードニスは居ても立っても居られなくなり、ICUの前に行った。無論、乙夏がその室内に入れるわけはないのだが、勝手に身体が自分の病室を出ていたのだ。
『彼女の…名前………』
ICU前の通路の壁にもたれ、QZL-BMWLの本当の名を考える。
「乙夏=モードニス…」
彼の名を呼ぶ少女の声に反応して横を向くと、声の主の少女と共に、少年の姿があった。声だけでは判らなかったが、その陶器で出来た人形のような端麗な二人の容姿は、一瞬で記憶を喚起するには十分であった。今日は二人とも制服ではないが、やはり真っ黒な服を着ている彼らを見て、乙夏は伊達甲斐造のバンドのライブに訪れる客の服装を連想する。
もっとも、少女の隣に立つ少年は、昨日乙夏の出会った少年ではない。姿形は同じであるが、少年…真枝・J=尊氏は、昨日の内に消滅している。現実世界の東城神詞のエイリアスたる尊氏は、東城の死と同時にDWゲーム内から消えてしまったのだ。今、尊氏として少女…真枝・H=信濃の傍らに立つ彼は、尊氏の臍帯を体内に取り込み、尊氏の肉体を得たPPT社のアンドロイド〈ゴーレム〉である。
乙夏は気付いていないが、〈ゴーレム〉の方は、乙夏との面識がある。数日前、要石で乙夏の友人、伊達甲斐造の姿で二体のAシリーズを指揮し、乙夏に攻撃させた張本人、それが彼だからだ。
「昨日の言葉…訂正するわ」
四つの漆黒の瞳が、乙夏を見つめる。先に口を開いたのは、少年の方だ。
「聖母は堕天使のしかばねを得て、反聖母となり、魔王は産み落とされた」
「天国であり悪魔の巣窟である場所が、救世主を手招く……という訳で、行くわよ。ついてきて頂戴」
尊大な少女の言葉に乙夏は、え、と戸惑いを露にする。
「ここに居る聖母…QZL-BMWLは、昏睡状態から醒めはしたけれど、それはまだ聖母としての覚醒ではない。あなたが彼女の本当の名前を、彼女に教えてあげない限り、何も変わらない…私達の側から変えることは出来ないのよ」
それは、自分が人間に創られ、干渉されて生きる架空の者であることを知る少女の…その干渉の末に大切な者を失わされた彼女の、強い意志の言葉だった。
そして、対する乙夏は、まだ、知らない。自分が、DWの中にしか居られぬ、架空の者であることを。
「なあ……ひょっとして、あんたらもゲームのテストプレイヤー……?」
その一言に、信濃は、乙夏がまだ〈知らない〉ことを知る。
一瞬、彼女はその長い睫毛を伏せた。
「………ええ。そういう設定の、DWゲームの登場人物よ」
乙夏には、彼女の言葉の意味がうまく伝わらない。彼女に代わって、尊氏の姿をした〈ゴーレム〉がその残酷な言葉を告げた。
「おれも、信濃も、あんたも……皆、このDWの他の登場人物と同じく、架空の者だということだ」

☆   ★   ☆

自分達はどこからきたのだろう。
その疑問を胸に抱き、それを解きあかすべく奔走する双子の兄妹。それが、〈H=信濃〉と〈J=尊氏〉の〈初期設定〉だった。
しかしその新堂真による設定は、真枝神曲によるハッキング、データの書き換え、更に真枝本人のDWゲームへの介入によって、全く違ったものとなり、双子がDWに及ぼす影響にも変化が生じた。
真枝神曲は、双子を自らの息子と娘という立場へと書き換え、真枝という姓を与えた。年齢的に実の親子とするには少々無理があるので、戸籍上の親子にすぎないのであるが。 そして、二人の十三歳の誕生日に、父親である彼は双子に、重大な告白をした、という設定を、付け加えた。

神曲は、双子に告げたのだ。
彼らの生きる世界が現実世界をデジタル化した複製…架空の世界であることを。その世界が、何者かに創造され操作され支配されているということを。

それを知った日から、双子は心密かに、創造者からの独立を夢見た。
そして世界は覚醒し…やがて、聖母を覚醒させる段階へと進んでいく。

☆   ★   ☆

研究室で、既に永遠の眠りについている母の姿を眼にし、サタンは、戸惑いを隠せずに居た。
そして、見知らぬ男が立っていた。
「君の母親は死んだよ…魔王。君は、今や、完全に孤独だ。指示を仰ぐ母も居なければ、率いるべき軍も無い」
この男が母を殺したのだろう、サタンはそう悟った。しかし、寂寥感や空虚感は感じるものの、その胸に怒りは沸いてこなかった。母の死顔の安らかなことが、そうさせたのかもしれない。
どこかで、この男に心を許した。
「……世界は、この先どうなる? 俺は母上と俺が統治するはずだった未来しか知らない。だが、母上亡き今、その未来は実現しえないだろう」
サタンの問いに、男は答えた。
「戦いの末に……人間が天使から統治の権限を勝ち取るか、天使が今までのように人間を支配下に置くか……どちらかだろうな」
それから、暫らくは双方黙った。
研究室の十を越えるディスプレイが、現実とDWをそれぞれに映し出している。そこに映るのは、天使の支配から逃れる為に決死の覚悟で戦う人間達の姿だ。
「人間がこの世から天使どもを一掃する様を、ぜひともこの眼で見てみたいものだな」
サタンは一つのディスプレイを見ながらそう言って、左眼を細めて、にやりと笑った。
「…彼らと……人間と共に……戦うということかい?」
「誤解するな。俺はただ……傲慢な天使どもをこの世界から消し去りたいだけだ」
その素直ではない物言いが、東城にも藤守にもそっくりだ、と男-真枝神曲-は思ったが、それは口には出さず、理由はどうあれ心強いよ、と微笑を浮かべるに留まった。
「君に行って欲しい場所が、二ヶ所有る。そこに居る者に、伝言を届けてほしいのだよ」

☆   ★   ☆

自分の存在が〈架空〉だという双子の言葉に、乙夏はかなり受け容れがたいものを感じたが、落胆する暇もなく、双子に引きずられるようにして、どこかに導かれた。
「……どこまで行くんだよ…?」
神代医大を出てから結構歩いているが、目的地には未だ到着しない様子であった。乙夏には目的地がはっきりと示されていないので、その分の苛立ちも加味されている。
その問い掛けに、信濃は無言で立ち止まり、空を仰いだ。正確には、彼らの側に建つビルの上方を、だ。
「………PPT社…?」
「…ここに、この世界の〈創造者〉が居るわ」

三人は、PPT社のビルの敷地へ入ろうとする。乙夏の見るかぎり、普通の会社だ。だが、門には微笑を浮かべる受付嬢を映したディスプレイがあり、その両脇に、鋼鉄のアンドロイド…Aシリーズ・ケルビムタイプの姿がある。
アポイントメントも取っていない乙夏達を、彼らが門の奥に通す訳はないことは、双子には分かり切っていたことだ。
「父なる神の御名において命じます。〈追放者〉に天使の翼を与え給え」
瞬間、宙を舞った尊氏がケルビムタイプごと光で門を切り裂いた。その手には、小さなロザリオが握られている。
「乙夏=モードニス! 走って!」
信濃は叫ぶやいなや、乙夏の腕を引き、壊れた門を抜け、ビルの中へと走りだした。
「早く、創造者に会わなければ……!」
焦燥を含んだ、信濃の声。しかし、目的が…創造者がどこに居るのか、彼女にも、尊氏にも判らない。
「…早くしないと。Aシリーズに囲まれたら終わりだ」
最初のセキュリティを破壊して侵入した者達のことは、もう知れてしまっただろう。まもなく、Aシリーズがやってくる。
「……こっちだ」
信濃に腕を捕まれたまま、彼女を引きずる形で、乙夏は走りだした。
何の根拠もないのに、自信は有った。
それは彼の内部から出てくるというよりは、外部から、呼び寄せられているような……運命の糸か何かのように、乙夏自身も感じていた。

白い壁の続く廊下を走り抜けた先には、銀色の、観音開きの扉があった。
「……!」
その扉の前には、スーツを着た一人の男が立っている。
その男を見た瞬間、乙夏には判った。
この男は、自分だ、と。
「ようこそ。出会ってはならぬもう一人の俺、乙夏=モードニス」
いつか、どこかで聞いた声。
正確には、この男のオリジナルは現実世界に居る。今、DWの乙夏の前に居るのは、データをデジタル化されたコピーである。
「……あんた…シンドウ…マコト?」
乙夏は、脳の片隅に記憶していた。このDWゲームに投げ込まれる直前に頭に直接響いた声を。
「……よく覚えていたね。そして君は今ここに居る。俺と出会うことが出来た」
新堂は、言った。「出会うことが出来た」と。決して、「出会ってしまった」とは言わない。
「俺と君の出会いは、このゲームに急展開をもたらす」
新堂の顔からは、決して笑みがこぼれることはない。語り口もまた同様だ。
「聖母が覚醒する。そうでしょう?」
信濃が新堂に向けて言う。
「それだけではない。戦いは、一挙にラストシーンまで動きだす。〈母〉が…マリアが目覚め、そして…人類は〈自由〉を勝ち取るだろう」
自由という言葉は、何者かからの抑圧を受けていた事実を物語る。乙夏には感じる術もなかった抑圧を。
「さあ、君に聖母の本当の名を教えよう。彼女の名は……………」
そこで、突然、新堂の動きが止まる。その肉体に異変が起こっていた。
映像の乱れたテレビ画面のように、彼の体には亀裂が出来、千切れ、跡形もなく消えてしまった。
「なんてこと………」
新堂の立っていた位置を見つめ、落胆を隠せぬ三人。しかしその背後で、乙夏にはどこか聞き覚えのある声がした。
「……アスカ・ヤヨイ…それが、聖母の名だ」

☆   ★   ☆

同時刻、現実世界。
サタンが退却の際に、襲撃してきたAシリーズを一掃してくれた為、新堂らはとりあえず戦闘からDWナビゲーションルームに戻ってきた。東城の亡骸は、サタンと共に例の過剰な斥力の中心部に居た為、Aシリーズのように損傷することはなく、現在はDWナビゲーションルーム隣の休憩室に横たえられている。
そして、彼らは現在一人でDWプレイヤー全員のナビを引き受けている凪喪憂子から、衝撃的な報告を受けていた。
「DW内の……〈新堂真〉が消滅しました……」
DW内の新堂真の存在は、彼が乙夏に出来る、最大の支援であった。しかしそれは…その使命を果たすより先に…おそらくはミカエルによって消されてしまった。
「……くそっ………」
「あ…? 何者かが乙夏達に接触しようとしています!」
「何!」
新堂が凪喪の傍らでディスプレイを覗き込むと、そこには乙夏と信濃、(ゴーレムが複写した)尊氏、そして、見紛うはずの無い人物が三人の背後に歩み寄っていた。
「………サタンだ…」
その一言に、DWナビゲーションルームは沈黙に包まれる。
凪喪が、スピーカーのボリュームを上げた。DWの音声が、室内に響きわたる。
『……アスカ・ヤヨイ…それが、聖母の名だ』
姿だけでなく、声までも東城に酷似している。東城を殺した加害者。Aシリーズを統べる権力を失い、戦地から去った彼が、なぜ今DW内に居るのか。
「何故……知っているんだ…」
聖母の名を。
『…あんたは……?』
乙夏が問う。サタンは新堂を、そして真枝兄妹を見、そして言う。
『早く行け。時間が無い』
言われて、乙夏達は少しのためらいを見せつつも、元来た道を引き返して行った。
「……サタンが…乙夏達に味方しているだと…?」
誰も居なくなった廊下で、サタンはぐるりと辺りを見回す。一瞬、新堂はディスプレイ上のサタンと眼があったように感じられた。その眼が、どこか憂いを帯びているようにも。
『…! 何だ……?』
途端、新堂の視界が暗くなる。体から力が抜け、意識が薄れていくのが判る。
「…主任ッ……」
「マコやんっ…」
声が聞こえる。
もう聞こえない。
勢い良く後方に倒れた気がするが、床にぶつかった感覚は感じない。
意識が、途切れた。

☆  ★  ☆

引き返したPPT社の廊下には、先刻乙夏達を襲ったAシリーズたちの残骸が幾つも散らばっていた。誰かに壊された様子である。
『さっきの男がやったのか…?』
「急ぎましょう、乙夏=モードニス」
信濃に急かされ、乙夏はああ、と少し歩調を早める。

「面会ですよ」
真っ白な病室に通される、三人。
真っ白なベッドに身を預けている、房森陽洸と、QZL-BMWL。
「……QZL-BMWL…やっと判ったよ。あんたの名前が」
「……教えて…あたしの本当の名前。あたしが此処に存在する意味を」
「アスカ…ヤヨイ………」
聖母の、覚醒の時が訪れた。
QZL-BMWLであった少女は、〈アスカヤヨイ〉の名を受け、聖母の称号を冠する。その目蓋が、ゆっくりと閉じられ、そして開く。
「……ねえ」
涙。
「……陽洸……あたし、行かなきゃ」
突然の涙とその一言に、唖然とする陽洸。
「……………え?」
「あたしは…人間をミカエルの統治から開放するための兵器。今すぐ、ミカエルの処へ行かなくちゃいけないの」
「…何だよ……そのミカエルって…? なんでお前がそんなことしなくちゃいけねえんだよ…?」
ベッドから降り、ヤヨイの肩を掴んで眼を見つめる陽洸。ヤヨイは、弱々しく笑う。
「大丈夫。きっと、戻ってくる」
誰もが、心の奥では感じていた。これが今生の別れとなることを。
「……こっちを向いて」
ヤヨイは陽洸の顔を引き寄せる。
「私が何をしたいか……分かる?」
「大体は」
「……だったら……それに…応え…」
途切れ途切れの台詞を遮って、ヤヨイの唇に自らのそれを重ね、彼女を抱き締める陽洸。ヤヨイも、彼の背に腕を回す。
どこにも行かせるものか、と。
それでも、陽洸の手からヤヨイの体温が、感触が、消えていく。一瞬で、姿はもう、無い。
白い羽が、ベッドに散らばっていた。
天使の飛び立った跡のように。
「……何者なんだよ…ミカエルってのは…!? 何であいつがそんな使命背負ってるんだよ…俺達皆、今そのミカエルって奴の存在を初めて知ったっていうのに……」
「……陽洸…」
床に座り込んだ陽洸に、乙夏が声を掛ける。しかし、名前を呼んだその後は、言葉がでてこない。この状況で、なんと言葉をかけていいのか、分からなかった。
「出てってくれ。もう…誰とも会いたくない」
乙夏達は、無言で病室を後にした。部屋を出る直前に少しだけ振り向いて陽洸を見ると、彼は床から立ち上がろうともせずに、項垂れていた。
病室を出るとすぐ、信濃が深刻な、しかしどこか諦念を感じさせる表情で乙夏の方を向いた。
「……乙夏=モードニス。もう、救世主としての、貴方の役割は終わったわ」
「終わった…? 終わったって……」
「世界は、終わるの。ゲームのように、強制終了されるのよ」
その言葉が冗談ではないことは、判っている。しかし、受け入れることの出来ぬ事実である。
「どういうことだよ…おい! ナビゲーター! 何か言えよ!」
脳内には、彼自身の声が響き、そして沈黙が覆う。もう、現実世界はDWとのアクセスを必要としなかった。サンタマリアが目覚め、必要な駒はすべて揃ってしまったのだから…。
「……大丈夫よ。乙夏=モードニス。終焉に、痛みや苦しみはないわ。ただ、いつ終わったのかも私達には判らぬまま、消えていくだけ」
どうして、この少女は、こんなにも冷静なのだろう。乙夏は……
走りだした。ちょっと、と呼び止める信濃の声がする。年配の看護婦が静かにして下さいと怒鳴る。それらを無視して、彼は走る。どうせ、皆消えてしまうのだから。
ならば、逢わなくてはならなかった。
たった一人。
自分を惑わすリリスが消え、初めて気付いた、自分の本当に愛した者。
いつも近くに居て、近すぎて、その大切さに気付けなかった。
「な……」
広い病院を走りぬけ、外来患者・見舞い用の玄関から外に出る。偶然にも、その人物は病院の門をくぐったところだった。
彼女が、彼の名を呼ぶ。
「あれ。どーしたの? 乙夏」
「………なつき…」
彼女は、何も知らない。この世界が、もう少しで消えてしまうことなど。
「七月…」
噛み締めるように呼んで、抱き締めた。
「ちょ…乙夏……何すんのよっ…!」
涙が滲むのを堪えて、身体を離し、冗談めかして笑った。
「………アメリカ式挨拶」
「…ばかっ!」
七月は、顔を真っ赤にして、乙夏の脚を蹴った。
「いてて……ははは…」
世界が終わろうとしても、七月は、乙夏の知るいつもの七月だった。
「なあ、このままどっか行こうぜ」
「……は? あんた入院中でしょ? それに怪我がまだ…」
「外出許可取ったから平気」
もちろん、嘘だ。
「……大丈夫? てゆーか、どこ行く気?」
「………甲斐造ん家。あいつ今の時間絶対寝てるし。起こしに行こう」
「あはは、酷っ」
二人は並んで、歩きだす。
その顔を覆うのは、笑顔だ。
「甲斐の奴こないだのライブの時ダイブして右足強打したらしくてさあ。馬鹿だよねえ」
「七月」
彼女の話を遮るように、彼は彼女の名前を呼んだ。彼女はそれに応える。
「なに」
「手、繋いでもいいか」
彼女は絶句する。
心なしか早足になる。
「ばっ…馬っ鹿じゃないの!?」
「寒いんだよ」
沈黙。
「…………冷たい手」
七月の左手が、乙夏の冷たい右手を乱暴に掴んだ。真冬に手袋もしていないのに、七月の手はとても熱い手だった。
「あったかいな」
七月は答えない。
「手、繋いだのなんて、久しぶりだな」
七月は答えない。
「幼稚園以来?」
「……小学校の、フォークダンス以来よ…」
七月の言葉に、乙夏は笑った。
世界が終わるなら、今、終わってしまえばいい。そう思った。痛みもなく、苦しみもなく、ただ、手のひらに伝わる七月の体温だけを感じている今この時に。

☆  ★  ☆

失われた新堂の意識と感覚。
まず始めに取り戻したのは、聴覚だった。
男と、女の、話し声がする。
「そう…私は、彼と私を殺せばいいのね」
「それが、ミカエルを完全に抹消する為に必要なことだ。出来るか」
「出来なければ、全ては原点に帰ってしまう。そんなことには、させないわ」
聞き覚えのある声。
『……この声…弥生……?』
意識が覚醒。視界がだんだん明るくなる。
何故だか感じる。ここは飛鳥弥生の意識の世界。そこにアクセスしてきた一人の男と、偶然迷い込んだ新堂。
『そこにいるのは…弥生……と、サタンか?』
二人はまだ、新堂の存在に気付いていない。
「お願いがあるの…私の身体は今、永瀬によってコールドスリープ状態にされているわ。このままでは、何の行動も起こせない。コールドスリープを解除してほしいの」
「よかろう……どうした?」
弥生が、新堂に気付き、表情を変える。サタンも、彼女の見つめる先を振り返る。
「……真…」
懐かしい、弥生の微笑。新堂はその微笑に近付こうとする。しかし……
「ごめんね……さよなら。真」
視界が霞み、意識が途切れる。
声帯は弥生の名を呼んだだろうか?

「弥生いぃー!!」
大声で叫びながら、新堂が目を覚ますと、視界に入ったのはあずみと石崎の顔、それにDWナビゲーションルームの白い天井だった。背中に、冷たく硬質な床の感触。倒れてぶつけた痛みが今更感じられる。
「真…よかったぁ……」
「びっくりさせやがって…」
皆、口々に安堵の声を洩らす。
「弥生が……」
鼓動が早い。奥歯ががちがちと鳴り、手が痙攣する。
「弥生が…死ぬ……」
「弥生がどうしたんだ? 死ぬって……」
新堂は答えない。答えられない。彼がその問いの答えを告げた時、ここにいる仲間は、敵となるかもしれないからだ。
「対ミカエル用兵器、サンタマリアが覚醒し、彼女はDWと共にミカエルを消し去ろうとしている。しかし、DW上からミカエルを抹消しても、ミカエルは現実世界の選ばれた人間の肉体を依代とし、現実世界に復活することが予想される。だから、ミカエルを抹消する前に、ミカエルの依代となりうる人物を抹殺しなければならない。そして、その依代こそ、ミカエルの啓示を受けた永瀬光と聖母のオリジナル・飛鳥弥生……そうですね? 新堂主任」
冷酷に、辛辣に、真実を皆に伝えたのは、妙崎建だった。
新堂は、返事もせず、起き上がってDWナビゲーションルームを出ようとする。すかさず建はドアの前に立ちはだかる。
「……行かせませんよ。言ったでしょう? この史上最高の頭脳が無に帰すような事態は…遠慮させて頂きます。僕の未来に、ミカエルの支配は要らない」
「……………」
新堂は考える。自分はどこでミスを犯したのだろう、と。
彼の計算通りにことが進んでいれば、今頃彼は世界の人間のミカエルからの開放をとっくに放棄して、弥生との再会を果たしているはずだった。たとえ、その後弥生がミカエルの依代となり、弥生としての自我を失ったとしても。反乱軍を率いる頭であった彼は、人間のことなど本当はどうでもよく、仲間と称した者達は利用したに過ぎず、全ては彼が飛鳥弥生と再会する為だけに進められていた計画だったのである。
「…皆……済まない…」
新堂が携帯電話からどこかに英数字のコードを送信すると、天井から白い煙のようなものが吹き出て、室内を満たしていく。特に、建の居る入り口のドア付近に向けての勢いが強い。新堂は呼吸を押さえて、しばしの間耐えた。
これは、〈E-5b〉装備と呼ばれ、本来は敵対勢力の侵入に対し、最も少ない犠牲で済ませる為の装備だ。噴射されるのは催眠ガスなので、通常死人は出ない。ドア付近に向けて多量に噴射されるのは、敵の侵入を出来るだけ防ぐためである。
それが新堂にとっては利となり、ドアの前に立ちはだかっていた建は、誰よりも早くガスの効力で眠っていた。
メンバーの中にはまだ意識の有る者も居たが、到底新堂を追うことは出来なかった。
弥生の居場所が、新堂にはやっと判った。先刻の夢のような意識。断片的に見えた部屋。そして、永瀬光が居るところ、それは、社長室だ。
最上階を目指すエレベーターに、新堂は乗り込んだ。再会の果たせることを信じて。

☆  ★  ☆

SSH社ビル最上階。社長室。
永瀬光という人間が、落下していく。
最上階から一階まで中央が吹き抜けになっているビルの構造上、落下速度をまして、エントランスホールの床に真っ赤な花を散らす。
「………はあ…はあ……」
飛鳥弥生は、その花を見まいとして、手で顔全体を覆い、床に座り込んだ。
「……まこと……真……」
先程、黒髪の男と共に、弥生の意識にアクセスしてきたのは、紛れもなく新堂真だった。逢いたい。しかし、自分はこれから死なねばならない。自分が生きている限り、ミカエルの支配は終わらないのだから……。
と、エレベーターの扉が開いた音がする。誰かが来る。
「……弥生!」
自分の名を呼んでいる。これは。
「………………真…!」
彼女の許に駆け寄る新堂。座り込んでいる弥生に近付いて床に膝を付き、抱き締める。
「……よかった…逢えた……」
「でも、真……私は……」
「いいんだ! 死んだりしなくていい! 人間がどうなろうと、俺は弥生が居れば…」
抱き締める力が増し、語気も強くなる。
「……だめ…だよ……真……私は、耐えられない。人間を見捨てることなんて、出来ない。それに、ミカエルの依代にされて、私でなくなってしまった私なんて、真に見られたくないよ。……私は、いっそ、まだ飛鳥弥生で居られる内に、死んでしまった方が幸せなの…」
それは、願いというよりも、祈りのようだった。

二人は立ち上がり、新堂は弥生を抱き締めた。落下防止用のフェンスの外のわずかな縁に立つ。もう、抱き合うことは出来ない。数十メートル下に、永瀬であった大きな赤い花が見える。
二人は、その縁から足を離した。空気に体重を預ける。
落ちてゆく。下へ。下へ。
新堂だけが。
弥生は。
浮いている。
否、翔んでいるのだ。
床に打ち付けられる直前、弥生のその背に白い翼があるのを、新堂ははっきりと見た。 はっきりしているのは、弥生が、ミカエルに乗り移られていたこと。
曖昧なのは、弥生がいつまで弥生であったのかということ。最後に交わした言葉達の、どこまでが弥生の真意で、どこからがミカエルの虚言であったのかということ。
そしてもうひとつ、明確な事実は、新堂真が死んだということであった。

エントランスホールの床に咲いた二輪目の花に見向きもせず、弥生…否、ミカエルは両の腕を伸ばし、純白の翼を広げた。
その五肢が、翼が、光となって、拡散していく。
世界に、光の粒子が降り注いでゆく。
もはや、光の雨ではない。
万物を超越したその強大な光は、世界を呑み込む、洪水だった。
そして、飛鳥弥生の姿は、もう、どこにも無い。消失、というよりは世界との融和。
彼女は万物に融け込み、万物に属する母となったのである。

☆  ★  ☆

新堂真の死亡の数分前。DW内。
真枝兄妹は、神代医大の屋上に居た。
空は青く、和らかな陽光が降り注いでいる。彼らの他にも日光浴をする入院患者や見舞い客、洗濯物を干す看護婦の姿などが見える。
平和だった。
世界が終わる日とは思えぬ程に。
それは、幸せなことかもしれなかった。
「……いざ、終わるということになってからが永いものね…時間って」
「…何か無いのか? やり残したこととか」
「………そうね。有るわ」
信濃は巻き髪を揺らしてベンチから立ち上がり、碧空を見つめ、高らかに唱えた。
「父なる神の御名において命じます! 〈追放者〉と我、〈伝承者〉に天使の翼を与え給え!」
当然ながら、周囲の者は少女の妙な言動に目を丸くし、美しい声のした方向を振り返った。
彼らは、奇跡を見た。
美しい双子の兄妹の背からは美しくはためく白い翼が現われ、二人はそれをはばたかせて、宙へと舞い上がったのである。
「いつも、尊氏ばかりが空を翔べるから、羨ましく思っていたわ。戦闘の時は、尊氏だけで精一杯だから、自分も翔んだことなんて無かった」
「気分はどうだい? 信濃」
信濃は、少しかたい微笑を湛えて、問いに答えた。
「とても、すがすがしいわ」
それが、大変に信濃らしい答え方だと、尊氏は心のどこかで思った。本当の、尊氏の心と、ゴーレムである自分の心が真に融和して、ひとつの心になったのだと信じたかった。

世界の終わりに、幾人かの人が、天使を見た。
世界が終わったことに、誰も気付けなかった。痛みも苦しみも恐怖も、そこには無かったのだから。
それは、救済であったのかも知れない。

エピローグ『Lucifer』

DWが強制終了し、飛鳥弥生がミカエルの依代となり、世界に光の洪水を引き起こした。
それからさほど時は経過していない。藤守ミサヲの死体の有る研究室に、二人の男が居る。真枝神曲と、サタンである。
「…君の夢破れたり、だな。ミカエルの支配はより完璧なものになったと言っていい」
「……先のあの光は、一体何だ…忌ま忌ましい」
「あれは、ミカエルの精神体と、聖母の肉体の融合体である新しい天使の肉片さ。ウィルスみたいなもので、人間の細胞に侵食し、人間は天使と人間のキメラになる。おそらく、この世に存在する人間の中で、ウィルスから逃れた者は居ないだろうな。たとえ、妊婦の体内の胎児だろうと、人型もとってない受精卵の段階だろうと」
もちろん、私も感染しただろう、と神曲は自分を指差す。
「……俺は…?」
「…君かい? そうだな…君は元々人間と悪魔の混血のようなものだからな。複雑ではあるが……きっと、侵入しているはずだ。天使の細胞が」
「…天使の……」
「天使と悪魔の力は、両極のものだ。両者は相容れず、君の中で反発し合うだろう。しかし、三者を共存させることが出来たら素晴らしいと私は思う。君の身に起こっている混沌は、今のこの世界と同様だ。天使と悪魔がいがみ合うように、人間同士でさえ、日々殺し合っている。少しでも異なるものを認めたがらないのだ。しかし、君が身に秘める白の力と黒の力、そして灰色の力を共存させることが出来たなら、世界は、きっとこれから変わっていく可能性が有ると思う」
神曲の視線は真摯な思いを映すかのように、真っすぐにサタンに注がれている。サタンが俯くと、神曲は研究室のブラインドに手を掛け、窓の外を見た。外界には夜明けが近付いていた。
明けの明星が、空の片隅に輝いている。
その輝きに、神曲は、今や赤い花と散った新堂のことを思い出す。彼は決して長くなかった一生の中で、どれだけのものを失い続けてきたのだろう?
神曲は、彼の死の瞬間を、この部屋のディスプレイから傍観していた。
飛鳥弥生をミカエルに奪われ、自分は落下を止める術の無いあの絶命の瞬間の絶望は、いかなるものだったのだろう?
思案しているうちに、朝日が昇り始めた。 夜明けを、こんなにまじまじと見つめるのは、初めてだった。光が闇と混じり合うように、次第に明るくなっていく。
「俺は……悪魔であることも…天使であることも…人間であることも…全てを受け入れて生きていこうと思う」
サタンは、陽光に覆い隠される明星を見つめて、言った。宣誓のようだった。
神曲はその言葉を嬉しく思う。この誇り高き青年の言葉に、遥か未来への希望を感じずには居られなかった。
数世紀の後には、おそらく人間の中から、翼を持つ者達が誕生するだろう。
圧倒的多数の翼無き人間達は、彼らを好奇の目で見るだろうか? 異端であると迫害するだろうか? 崇拝するだろうか?
それとも翼を個性として、翼無き者と変わりの無い人生を送るだろうか?
そんな時代がいつか来てほしい、神曲は願わずには居られない。
そしてその先駆けが、神の創った三様の人型、〈天使〉〈人間〉〈悪魔〉の遺伝子を受けた新しき者、サタンなのではないか、と。 彼こそが…きっと、新堂の希求した〈灰色〉の存在。ルシフェル・ハイブリッド…否、厳密には異なるのか。
彼は〈灰色〉であるだけでなく、〈白〉でも〈黒〉でもあるのだから。

再びこうしてミカエルの…天使の支配が根付くこの結末を、果たして誰が望んだであろうか。
誰もが望んでいなかったとしても、今の神曲には、これで良かったのではないかと思えた。彼の傍らで朝日を見つめる青年が先駆するであろう新しい世界は、最悪の結末と言うには悪くないものであるような気がしたのである。

(【Real-Side】もう一つの最終話『ザ・ファイナル』)

 

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【Real-Side】『エピローグ』

  「なぁ、アスター。太陽って見た事あるか?」
暗闇に聳え立つコンクリートの群れの合間を歩きながら、少年は自分より一つだけ年長の友人に問うた。
「馬鹿か、お前!
何を寝惚けた事言ってるんだよ。」
アスターと呼ばれた彼は、素っ頓狂な声をあげる。しかし慌てて口を塞ぎ、少年を小突くと小声で話しを続けた。
「シュウナよ、昼間に夢でも見てるのか?
そんなんじゃ、天使様に狩ってくれと言ってるようなもんだぜ。」
二人は自分達が今すべき事を思い出す。
この管理された箱庭の中では、天使達に従い、悪魔達を狩りながら生きていくしかなかった。
しかし、そんな中でも叛旗を心に抱き、はためかせる者達がいた。
表向きは天使達に従い、悪魔狩りを生業としながら反抗の機会を窺っている者達がだ。
二人は未だその存在をしらず、くすぶりを心の中に抱き、独自に反抗の準備をしていた。
それは子供の夢物語のそれに毛が生えた程度であったが、この日、この時、彼らは出会ってしまった。
凛とした強さと意志を瞳に秘めた、黄金色に輝く金髪の少女と…
彼女が地下に封じられた人と悪魔の更に地下深い闇の世界から来た者と知った時、二人の少年は一二〇年にわたる天使による管理された世界に終止符を打った英雄となっている事だろう。
しかし地上が人間の世界に再び戻っても更なる戦いが続く事となる。
暦が変わっても、人は同じ過ちを繰り返しながら生き続けていく。
それが、かつての新堂真の希望した未来なのか、永瀬光の見た世界なのか、藤守ミサヲの求めた生き方なのか…
この世界に生きる彼らには知り得る道理はなかった。
だが、天使を電子信号の頚木を断ち切り現実世界に生きる存在となったように、人も記憶情報の影と神経細胞の火花でしかない精神の枷から更に高次の存在となるべく、造物主の世界に踏み込んで来るかもしれない。
今はただ、見守ろう。
彼らが今後、どんな生き様を見せていくのかを…

(【Real-Side】終)

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【Real-Side】最終話『壊れていくこの世界で……』

  記録者 新堂 真


東城神詞が死んだ。
その現実は皆の心に動揺の風を吹き込み、一瞬その動きを止めさせた。それは、神敵サタンを目の前にして自殺行為であった。しかし、彼は動かなかった。それどころか、完全に硬直しており、吹き抜けホールの天井に開いた大穴を見上げていた。
「うごかねぇなら、攻撃した方がいいんじゃねぇか?」
直情径行気味の石崎にしては慎重な発言をしている。流石に同僚の死を前にすれば慎重にならざるを得ないが、それでは石崎の持ち味を殺している事になっている。彼だけではない。建の器用さも、倉本の大胆さも殺され、戦いに消極性が見え始めていた。
そう、新堂らはサタンと対峙しながらも、Aシリーズの攻撃をかわし、また逆撃を加えてその場を凌いでいたのだ。
よくも七人で凌いできたものだ。
「あぁっ!もう!休みの梨華ちゃんたちが羨ましい!」
あずみは言いながらも、剣状に具現化されたエーテル・ブレードを振るいAシリーズを屠る。だが、言葉とは裏腹に剣の鋭さは皆と同様明らかに落ちていた。
だが一人、相も変わらず落ち着き払った人物が、一体、また一体と敵を残骸へと変化させ続けていた。
『わかってはいるが、人の死ぬ姿は嫌なものだな…』
新堂は思わず東城の名を呼んだ自分を振り返りながら剣を振るっていた。
しかし、そんな余裕もAシリーズの一体がサタンを攻撃した事で一瞬にして消え去った。
ジッ!
雷電が弾けたような音と同時に、サタンに近付いたAシリーズの一体が球状にえぐれたのだ。
「あっぶねぇ~
攻撃するとああなるのかよ…」
努めて明るく言ったつもりの石崎だったが、声は完全に裏返っていた。
同時に、サタンは東城に良く似た声で呟いた。
「わかりました、母上。撒布します。」
「!」
気付いたのは新堂だけであった。弾かれたように新堂は号令を飛ばした。
「全員集結!防御障壁レベルMax!」
遅れた者はいなかった。ホール中央に固まり、円形に陣を敷くと両腕を突き出し、更に肩部装甲からアームとシールドを出現させると、全員を包むように半球状の赤い障壁〈ファイヤーウォール=FW〉を出現させた。
FWの完成と一秒の間も置かず、サタンを中心に何かが撒かれた。
「我に跪け!神に踊らされし愚昧な者よ!」
それは、目に見える物ではなかった。いや正確に表現するなら、肉眼で認識するには余りに小さな物体であった。
「ナノマシンの撒布?
……FDV666!」
新堂以外で最初に気付いたのは建であった。
そう、ナノマシンにFDV666ダウンロードプログラムを内蔵し、Aシリーズのボディハッキングをさせたのだ。
ボディの統制を切断され、Aシリーズの核であるAAが書き換えられるまでにさしたる時間を要さなかった。
今、この場で三つ巴にあった勢力の二つが統合した瞬間であった。
「どうするんですか、新堂主任。
このままではこちらが不利ですよ。」
建の意見は最もであった。そして、新堂に策がない訳ではなかった。だが人道に反する策であった為、一瞬新堂の思考を止めさせてしまった。
「何を今更…」
新堂は次の言葉を飲み込み、あずみに指示を飛ばした。
「東城の装備にコード0を発信しろ…」
さしものあずみも、この言葉に表情を凍らせた。
「そんな…自爆コードを出したら、東城君の遺体が傷ついてしまいます!」
しかし、あずみより速く叫んだのは倉本であった。だがそれも石崎の叱責で掻き消される。
「倉本!どうせ、荷物になるだけだ。
そんなモンより自分の心配をしやがれ!」
石崎のこの言葉に激しく反応した倉本は、完全に頭に血が昇っていた。
「東城君の遺体を〈そんなモン〉ですって!
両手が開いたら覚えていなさい!
今日こそ貴方の頬が腫れ上がるまで殴ってやるわ!」
このやりとりにウンザリした建は、落ち着き払って、尊大に言い切った。
「いい加減にしてください。
痴話喧嘩は後にしてほしいですね。天国なり地獄なりでゆっくりとね。」
「ばかぁぁぁぁっ!」
咆えたのはあずみであった。
「いい加減にするのは、皆一緒だよ!
今、ボク達はまとまらなきゃならないんだ!」
おそらく、新堂と石崎以外ははじめて見たであろう、あずみの怒鳴り声だった。
そして次の瞬間、サタンの足元に崩れ落ちていた東城のE-9スーツを中心に、音も無く大きなクレーターが出現した。
「真の気持ちを汲んであげてよ…」
そしてクレーターの中心から衝撃波が疾り、全てを薙ぎ払ったのだった。

☆   ★   ☆

その頃、乙夏は神代医科大学のICUエリアに通じる自動ドアの前にいた。
房森陽洸の意識が戻ったと聞いてやってきたのだが、ガラス張りのそこは、エリア内に菌を持ち込まないよう、滅菌ルームとなっており、当然乙夏が侵入出来よう筈もなかった。
「乙夏!何で病室にいないのよ!せっかく見舞いに来てあげたのに!」
それはこの二日程、何度も目覚める時に傍にいてくれた幼馴染、湊七月であった。
乙夏と比べ明らかに無傷な彼女は、いつもの快活さを取り戻しており、制服以外スカートとは無縁なボーイッシュないでたちで立っていた。
「ん…ごめん。」
素直に謝る乙夏に、〈狐につままれたような〉という表現が似合いそうな素っ頓狂な表情になっていた事を七月は気付かなかった。
「ま、まぁ、わかればいいのよ。」
それだけ言うと、七月は黙り込んでしまい、妙な沈黙が続いていた。
「オマエら、そういう仲になってたのか?」
七月の後ろから軽口も滑らかに、ニヤニヤ笑っていたのは伊達甲斐造だった。
ステージとはうって変わって、地味な黒いニットのロングコートに目深に被った同じくニットの帽子。しかし明らかに怪しい、八〇年代の芸能人が好んで使っていたようなサングラスをかけているのが、何処かコミカルな印象を与える。
しかし乙夏は、このズレた感覚の兄貴分に先日激しい怒りを覚えたのを思い出していた。
「そうかそうか、だからライブ前に見舞った時にはキレてたんだな?
俺はまた、噂の神代病院だったから…
ほら、怒れる幽霊にとり憑かれてるんじゃねぇ~かと心配してたんだぜ。」
いつもの甲斐造だった。
腹を刺された時の甲斐造の姿をした〈あれ〉は、やはりゲームのキャラだったのだろうか、と自分を納得させ始めていた。
何故だろう。
乙夏自身、今の自分に驚いている。
今ならこの世界の全てが見えるような、本質とでもいえる〈何か〉を感じる事が出来るのではないかとさえ思い始めていた。
「もう、止めてよ!甲斐造!
そんなんじゃ、ないったら…」
だが、甲斐造の軽口は的を射ていたのかもしれない。いつもの七月であったら平手打ちの空振りで返事をしてきたのだが、今回はそれがなかったのだ。
それに気付いた甲斐造は、何故か本音を口にしていた。口にし始めたら、何故かそれが止まらなくなっている自分の不思議さを甲斐造自身、感じていた。
「へいへい、わかったよ…
まぁ、オマエらがくっつくなら俺も大人しく祝福してやるよ。
ここだけの話し、俺は七月が好きだったんだからな。
ったく、よ~
気付くの遅いんだよ、オマエら!
この、愛の伝道師KAI様が唯一手を出せなかった女が本命だなんてよ~
あ~あ、こんな事なら気付く前にヤッちまえばよか…」
パン!
甲斐造の言葉を遮り、彼の頬から音が響いた。それは静かな病院内を反響していく。
「ばか!」
七月は顔を真っ赤にさせ、戦慄きながら甲斐造を睨みつけていた。
そんな七月を見て、甲斐造は『本当に可愛い妹分だ』と自分を納得させようとした。
甲斐造の頬を涙が流れたが、それが叩かれた時のものか、ある感情のせいなのかは、甲斐造自身にも分らなかった。
ただ、七月の平手打ちが当たったのが、後にも先にもこの時が始めてであった事に気付いたのはかなり先の事であった。
そして、乙夏は更なる来訪者を受けることとなる。
先日出会ったばかりの謎の美形兄妹であった。正確を期するなら、一方的に話し掛けて去っていった事から、すれ違った程度の関係であったが。しかし陶器人形のような無機質な美しさと、先日という事も手伝い、彼らを認識する事が出来た。
「乙夏…モードニスよね?」
真枝・H・信濃は乙夏に疑問形で話し掛けていた。
「あぁ、そうだ…
そっちも、一日会わないうちに変わるものだな。」
七月と甲斐造を割って、兄妹の前に立った乙夏は、兄…真枝・J・尊氏の変化に気付いていた。以前は気付かなかった事が、何故か感覚的に感じる事が出来た。乙夏はようやく実感として自分の変化を受け入れ始めていた。
「っく…そう、よ。
でも、どうやら肝心なヒトタチが集まってるみたいね。」
一瞬眉をひそめ、端正な顔を歪ませた信濃であったが、突如慌ただしくなったICUの喧騒に皆の意識が向けられていた。
「とうとう起きたのね、聖母が…」
音も無く開いた自動ドアに立っていたのは、QZL-BMWL。足元に傅くは光輪と翼を得た房森陽洸であった。

☆   ★   ☆

「いいのか?サタンが消滅したぞ…」
未だモニターを続ける藤守ミサヲに、真枝神曲は冷静に、そして口元に薄い笑みを浮かべながら尋ねていた。しかし、藤守はさして困った様子も無く、静かに言った。
「困ったわね。貴重な手駒が無くなってしまったわ…」
それを見て神曲は呟きながら銃口をミサヲのこめかみに突きつけた。
「相変わらず可愛げの無い女だ…」
だが、その行動にサタンと同じ笑顔の作り方で、右眼よりも左眼を細めてくすくすと笑い出した。
「何か可笑しい?」
常に冷静と柔和を美徳としてきた神曲にいささかの苛立ちを覚えさせていた。それを知ってか知らずか…、いや知っていたのであろう。藤守は挑発的に言葉を紡ぎだしていった。
「だって、予想の範囲をでてくれないから…」
だから男は嫌いよ、と続けた刹那、神曲の拳銃は彼の腕ごと天井へと突き刺さっていた。
一瞬の出来事に神曲は何事が起きたのか理解出来ずにいた。唯一つわかっていたのは、先程と同じ異臭が鼻についた事だった。
「困った子ね。
でもありがとう。ママは大丈夫よ。」
神曲はようやく気付いたのだ。藤守ミサヲのワンピースを突き破り、陰部から血管の浮き出た蒼白な肌の腕が生えている事に…
「くっっ…
あれは、サタンじゃなかったということか…」
肘より先が無くなった右腕から、勢い良く血が流れ続ける。だが痛みは無かった。しかし朦朧とする意識は覚醒に辿り着きそうにも無い事を神曲自身感じていた。
だが、ミサヲは平然と神曲の独り言のような問いに答えていた。
「いいえ、あれもサタン。
この子もサタン…
私が居る限り、何度でも生み出せるわ…
もっとも、あと十月十日もすれば完全体として生まれてくるけど…」
神曲は、そう言うことか、とだけいうと、その場に崩れ落ちた。
『これが、俺の死に場所か…
まぁ、いいさ。今後の楽しみは譲ってやるよ、新堂…』
神曲の肉体は急速に死に向かっていた。いや、正確には肉体は死んではいない。何時の間にか右腕の出血は止まっていたのだ。それだけではない。血肉が蠢き、腕が新しく生えてきていた。黒く、人の腕とは異なるそれが…
「母上、この真枝神曲なる男の精神、死に絶えました。」
神曲は…いや、神曲の声と姿を持った存在は静かに言った。
「真枝神曲の声で母上とは呼ばれたくないわね。」
無感情に呟いたミサヲに、その存在はわかりましたとだけ答え、新しい腕で無造作に自分の顎と喉を抉り取った。同時に、肉が盛り上がり、新たな顔と声を彼は手に入れていた。
「いいわね。神詞そっくりよ…」
真枝神曲の肉体をよりしろとして、サタンは再び現世に生を受けた。
「次は、エイリアス達を屠ってきなさい…」
ミサヲの言葉に、はいと答え、サタンはコンソールからコードを引き出し、後頭部にあるプラグへと差し込む。
「ダイブ…」
次の瞬間、サタンはDWゲームの中に在った。
「さぁ、私(まりあ)の代わりに乙夏君達を苦しめてあげなさい。」
再び独りとなった藤守ミサヲは、DWゲーム内にダイブしていた時の〈藤守まりあ〉の表情となって、ころころと楽しげに笑いつづけた。

☆   ★   ☆

「聖母が…起きた?」
信濃の言葉を疑問形で繰り返したのは、七月だった。
言って、自分でもなるほどと聖母と呼ばれた女性に納得している部分もあった。
しかし、今の時代に聖母も何もないだろう、との気持ちも強かった。
「そう、聖母。
天使を生み出す者、人を天使と変える者、救世主を生み出す者…
メシア=プロジェクトの要、サンタ=マリアよ。」
信濃の言葉は、一同に更なる疑問符を投げつけていた。だが、信濃の解説が入るより早く、QZLが乙夏に囁いていた。
「私の名前…思い出した?」
神々しいまでの光を背に携えた彼女を前に、乙夏は身動きが出来ずにいた。それは威圧ではなく、安らぎを乙夏に与えようとしていた。
「アンタの…名前…」
乙夏は何かを思い出しそうになっていた。脳漿の光の渦の更に奥底が何かを訴えようとしていた。しかし瞬間、七月が叫んだ!
「だめぇぇぇぇっ!」
七月はQZLにざらざらとした、嫌な感覚を覚えていた。前世というものが在るなら、絶対友達ではなかった、と直感的に肌で感じた事が声になっていたのだ。結果としてそれは的を射ていた。七月はあずみのエイリアスなのだから…
びくんと身震いさせ、乙夏は我に返った。
乙夏自身、何かヤバイ、と感じる物があった。安らぎは確かに心地よい。しかし、その心地よさに身を委ねてはいけない、そう感じたのだ。
だが、それに信濃は抗議の声をあげる。
「なんて事をするの!
この世界を救うには、乙夏=モードニスが彼女の名前を思い出さなきゃならないのよ!」
端正な顔を先程以上に歪ませ、焦りの色を見せながら更に続ける。
「いい、アナタ達!
昨日、サタンが破壊された!
そしてサタンから核が抜き取られた!
藤守まりあと名乗った女に!
最高位の熾天使の核が汚され、堕天してしまった!
藤守マリアはアンチ=マリア、大淫婦リリスになった!
もう、時間がないのよ!
もうすぐ、リリスの身体を突き破って神敵となったサタンが私達の前に来るのよ!
乙夏=モードニスには、はやく救世主として覚醒して貰わなきゃならないのよ!」
言い切って、歯を食い縛る信濃に、この場でそれを知らなかった者達の心にある風を吹き込んだ。
〈否定〉という風を。
七月も甲斐造も、『違う』と心が、いや彼らの形を決定付けている〈魂〉がそう訴えていた。
それに気付いた信濃は愕然となった。見ているしか出来ない自分に、知っていてもどうする事も出来ない自分の無力さに…
『父さん…』
祈りにも似た救済を求める信濃の声は、ゴーレム…いや、今は尊氏となった彼は気付いていた。彼ら真枝家で得た尊氏の臍の緒を吸収したゴーレムは 既に尊氏そのものとなっていたため、常に意識が信濃とリンクしているのだ。だが、何も言えなかった。意識を共有しているといっても、かつての尊氏の様に兄 弟として育ったという経験までは持ち合わせていなかったのだ。
しかし、祈りは届いた。
現れたのだ、真枝神曲が…
ICUの前に立つQZLを護るよう、陽洸は立ちはだかる。
乙夏らには、一切QZLの身を護る素振りを見せなかった陽洸がとった行動の変化に、信濃は気付かなかった。
間に乙夏らを置いて、真曲がQZLを見つめていた。
しかしその視線すら気付かずに、信濃は神曲に近付いていった。
「父さん!」
先程とは打って変わって、安堵の色を見せた信濃であったが、次の神曲の言葉で神曲が神曲ではなくなっている事に気付いたのだった。時は既に信濃に流れる事を許さなかったが…
「どうしたんだい?信濃?」
この決定的なセリフに身じろいだ瞬間、神曲の右腕が不自然に伸び、信濃の胸を貫いていた。
「ふむ…どうして気付いた?」
神曲の顔で不思議そうな表情を作ってみせる。
「父さんは、私をハダーニエルと呼ぶわ…」
言って、信濃の時は永遠に止まった。
それを確認すると、神曲の姿をしたそれは尊氏に信濃の遺体を放り投げた。
尊氏が信濃を受け止めると、信濃の身体は光の粒となり、儚く霧散したのだった。
「神の意志を伝える前に神の御許へと還ったか…」
「貴方の手によってでは、ハダーニエルもさぞ無念であったでしょう…
ねぇ、サタン…」
神曲…いや、サタンに言葉を返したのは陽洸を控えさせ、一歩歩み寄ったQZL自身であった。
「なに、これからお前達が慰めに行ってやればいいだけのことだ…」
不敵に笑った彼は、神曲の姿を捨て、現実世界に忠実に自らの身体を変化させていった。
これから始まる、殺戮という名の宴の為に…

★   ☆   ★

衝撃波はSSH本社ビル一階中央ホールの全てを薙倒し、直径3mのクレーターを中心に平らな世界を作り出した。唯一存在したのは、PPTの面々であった。
この数日、SSH本社ビルの地下にあるDWオペレーションルームから出れなかった彼らが、ようやくまともに太陽の光を浴び、しばしの休息を取っ ていた。いや、これからSSH本社ビルの最上階を目指さなければならない彼らは、休息というよりもこれから来る戦いに備えて装備のチェックを行っていると 言った方がいいだろう。ただ休んでしまうと死んで行った東城を思い出し、精神的に身動きが取れなくなると誰もが感じていたのだ。今はこれ以上死人を出さな いためにも、勤勉にならざるを得なかった。
「準備はいいか?」
始めに立ち上がったのは新堂だった。さしもの新堂にも疲労の色が出ていたが、スーツのおかげでそれは隠されていた。
そんな新堂に続けと皆立ち上がる。誰も疲労を見せずに。
「まず、状況確認からだ。
現在我々はSSH本社ビル一階にいる。
コード0の衝撃の為に一時的なシステムダウンを起こしているが、これは間もなく回復するだろう。
神敵サタンを倒した今、残るは最上階のミカエルのみとなった。
奴を破壊する事が最終目的だ。
その為に〈軍事衛星メギドアーク〉を手動で動かし、メギドフレアをこのビルに向けて放つ。」
ここまで言って、建は疑問を持った。〈そんな事ができるのか?〉と…。今まで世界各国の情報機関からハッキングを繰り返し行われ、それを全て凌いできた水も漏らさぬ大天使のセキュリティが内部からなら瓦解出来るとでも言うのか?
しかしそれを口にするより早く、新堂自身が否定する。
「というのが建前だ。
成功させるのはまず無理だろう。
だが、この事を声高に叫びながらメギドアークのコントロール室を目指す。
そして奴らの注意を物理セキュリティに向けさせる。
そうする事で先のプログラムによりエイリアス達の覚醒と、DW内のメシアとサンタマリアを倒す手助けをする事になる。
だからと言って、我々も手を抜くわけにはいかない。
何故か、Aシリーズのタイプ3が一体もいない。
奴らはまだ戦力を温存していると考えるべきだろう。」
ここまで来て疑問を持っていたのは建のみであった。彼以外は新堂に初めからついて行く事と決めている面々ばかりだからだ。しかし建は皆とは異な り、途中参加であり、自分が生き残る事に強い執着をもっていた。知能の高さがその辺りの計算高さの理由となっている事はいうまでもない。だから、今は疑問 も不審を不必要に募る内容には触れない方が都合がいいと考え、自分も知っている当り障りの無い質問をしたのだった。
「ちなみに、メギドアークのコントロール室は何処にあるんですか?」
建の問いの回答に、彼らは〈成功しない〉理由を知ることとなる。
その部屋はミカエルの内部にあったのだから…
今更絶望的な状況が変わるわけでもなかった為、皆はなんとなくそれをあっさりと受け入れていた。
しかし、更に絶望的な報せは乙夏らをナビしていた凪喪によってもたらされた。
乙夏=モードニス死亡の報であった。

★   ☆   ★

「見事なものね…」
現実世界に戻ったサタンに労いの言葉をかけるミサヲは、母というには妖しく、白い肌に映える真紅の唇は艶やかであった。まるで恋人を待ち焦がれていた様に…
「でも、詰めが甘かったみたいね。」
ミサヲの言葉に、サタンは素直にそれを認めた。
「はい。サンタマリアとメシアを捕り逃しました。」
「それだけじゃないわ。これを見なさい。」
ミサヲが示したのは、モニターの録画VTRであった。

「なに、これからお前達が慰めに行ってやればいいだけのことだ…」
不敵に笑ったサタンは、神曲の姿を捨て、現実世界に忠実に自らの身体を変化させていった。
右腕は肩口から植物の根と血管が絡み合った黒く醜悪なそれへと変わり、神曲の不敵な笑みをみせていた口元は烏の様にせりでていった。まさに神敵を名乗るにふさわしい、悪魔の形相であった。
「なっっ!」
四人は身じろぐが、QZLと房森陽洸はそれを意に介す様子は無く、しかし臨戦体勢は崩さずに対峙していた。
瞬間、黒い腕は四人を無造作に打ち据え、激しく壁に吹き飛ばしていた。
されるがまま…、いや何が起きたのかさえわからないまま、四人は全身を襲った激痛のためパニックとなっていた。
そして、黒い腕は先のほうから自らの血潮を吹きながら四つに分かれ、それぞれが四人の心臓めがけて鋭く向かってきた。
あっけなくも四人の時計が止まるかと思われたその時、四本の腕は一瞬にして輪切りにされていた。
「これでいいんだな?QZL…」
「ええ、アリガト。陽洸。」
陽洸は悠然と一歩踏み出すと、真紅に燃える剣をサタンに向けていた。
しかしサタンもそれをさして気にする事無く、文字通り生えてくるように腕を再生させた。
「どうやら、予備は既に覚醒しているようだな…」
口の無くなったサタンがいつかのナビゲーターに良く似た声で呟く。だがその事に乙夏は気付きもせず、腕にしっかりとしがみついてきた七月とともに身動き一つできずにいた。
「失礼な事は言わないで欲しいわ…陽洸が先に私の名前を呼んでくれた。
私の名前を呼んでくれた人は光の軍団を統べる力を手に入れる資格があるのよ。
等しく、ね…」
言って、再びQZLは乙夏に問いを投げかけた。
「私の名前、思い出しかた?」
乙夏は、思い出していた。いや自分が生み出されるよりずっと以前から知っていた。
だが、自分の腕にギュッときつく絡みつく七月の目からひとすじの涙がこぼれた時、乙夏は小さな声だがはっきりとQZLに言った。
「思い出したけど、俺は今を生きている。
過去にいなくなった女も、訳のわからないモノや仲間もいらない。
俺はいまいるコイツを護る。」
それを聞いたQZLは静かに目を閉じると、サタンを抑えている陽洸の前に立ち、優しくキスをした。
同時に、陽洸の身体は更なる変貌を遂げ始める。
翼は四枚となり、身に纏う光が一層強くなっていったのだ。
しかしその瞬間はサタンにとって好機であった。
再生した腕を漆黒の剣へと変化させ、絡み合った二人に振り下ろした。
ヴンンン…
空気が震え、光は漆黒の剣をからめとる。
サタンの剣は二人までは届かず、宙に留まっていた。しかし剣から滲み出す闇はゆっくりと光を侵食しはじめる。闇と光は互いに互いを喰らおうと一 進一退を繰り返す。その中で光と闇が交じりたゆたう虚ろが現れはじめていた。だが、そうするうちに陽洸の変化は終わり、光の力が一気に膨れ上がった。
「くおっ!」
膨れ弾けた光は神代病院のさして広くも無い通路をサタンの半身ごと分子へと分解し霧散させていた。
同時に房森らは逃げに出た。背後の空間を歪ませると二人は身をあずけ、次の瞬間には忽然とその場から消え去っていた。
その場に、歪みと虚ろから漏れ出る輝く粒を残して…
粒は、乙夏らに触れると雪が解けるように身体の中に染み込み、先程受けた傷を一瞬にして癒し、萎えた心に熱いものを取り戻させていた。
漏れでた粒が全て消えると、闇一色であった。通路が破壊され停電したためだ。だがそれも、少しの間も置かず非常灯に切り替わる。今まで時が止まっていたかのように、病院内が慌ただしくなり、耳を聾するほどに警報がけたたましく鳴りはじめた。
「逃げられたか…」
困ったふうでもなく、事も無げにサタンは呟く。えぐれた半身は既に再生され、怪物の様は変わらぬ恐怖を漂わせていた。
「癒しの光を置いて去るとはな…
どうやらお前達に永く苦しみを与えてほしいらしい…」
「くそっ!逃げろ!」
乙夏は七月の腕を引き、ICUに向かって駆け出した。
尊氏=ゴーレムはそれに続いたが、甲斐造は逃げ出さなかった。
「上手く逃げろよ…」
呟くと、甲斐造はファイティングポーズを取り、サタンと対峙した。
「コラァ!このカラス野郎!
そういう格好はクリ君だけで十分なんだよ!」
ろくに格闘技もやった事は無いが、喧嘩で負け無しの甲斐造の右ストレートがボディを捉える。たまらず相手は身をくの字に曲げる程そのパンチには威力があった…そう、人相手であれば。
無造作に縦に振ったサタンの腕は、甲斐造を真っ直ぐICUの入り口まで吹き飛ばした。
甲斐造はそのままICUの入り口に辿り着いていた尊氏にタックルする形となり、たまらず尊氏も吹き飛ばされる。
背中にタックルされた尊氏は呼吸困難に陥っていた。だがゴーレムでもある尊氏の呼吸が元通りになるまで人間のそれより遥かに速かった。
すぐに振り返り、甲斐造を無意識に抱きかかえたが彼の時は既に止まっていた。
光の粒子となった彼の身体は、尊氏の腕の中で弾けて消えた。
尊氏は…いやゴーレムは、信濃が殺された事で自分の存在意義を見失っていた。だがそんな時、信濃の声が聞こえた気がした。
「そんな事ない。私達は貴方の中に生き続けている」
と…
安っぽいロマンチシズムだな、とゴーレムはすぐに走り出し、乙夏らの後を追った。
しかしICUに入ってすぐ、立ち尽くす二人を見つけ、ゴーレムは思い出した。
この部屋は入り口以外は密室だった、と…
「GAME OVER!」
サタンは絶望の中にある三人の心臓を三つ又に割った腕で貫き、体外に引きずり出されたそれを握り砕いた。
乙夏と七月は絶望を胸に抱き、一縷程の希望を夢見る時も与えられず、光の粒となり動かなくなったゴーレムに降り注いだ。
「ふ…」
サタンは踵を返し、天を仰いだ瞬間、DWゲーム内から忽然と消えていた。

「わかったかしら?」
モニターを前に、ミサヲはサタンに尋ねる。しかしサタンにはメシアとサンタマリアを逃がした事以外の問題は無い様ににえていた。そのため、無言で立ち尽くす事しか出来ずにいた。
「まぁ、いいわ。
どうやら、この戦いは永くなりそうね。」
予言めいた事を口にすると、ミサヲはすっくと立ち上がり、闇色の部屋から光の世界へと足を踏み出した。
「決着をつけに行きましょう。私達自身の手で…」

☆   ★   ☆

乙夏=モードニス死の報に続き、湊七月、伊達甲斐造、真枝信濃死亡の報告がもたらされた。
全てが後手後手にまわっている。皆がそう痛感せざるを得なかった。それを強く感じさせたのは他ならぬ新堂の自失であった。
「どうやら、ここまでみたいですね…」
はじめに立ち直ったのは、妙崎建であった。いや、正確には立ち直ったのではなく、予定通りの行動を取りだした。
「この史上最高の頭脳を無に帰する状況は避けさせてもらいますよ。」
その言動に石崎が激しく反応する。
「テメェ、まさか寝返るつもりか!」
石崎の腕は言葉より早く建を突き飛ばしていた。
たまらずしりもちをついた建であったが、やれやれと言った口調でそのまま語りを始めた。
「驚いたなぁ~
まさか、僕を仲間と勘違いしているとは思いませんでしたよ。
それも、あなたがね。〈石タコ〉…」
最後の言葉が何を意味するのかを知っている新堂、あずみ、石崎の三人は驚きのため思考が停止してしまった。
「テメェ、何でそれを知ってるんだ…」
「何をいってるのやら……あなたの綽名でしょう?
あ、そう言われるのは嫌いでしたね。
神代高校卒業の時に〈今度その呼び方をしたら絶交だ〉って宣言してたから…」
あずみは、以前感じた違和感の正体にようやく気付いた。
「たっくん…君、〈光〉だね?」
この回答は、その場の全員を驚愕させるのに十分であった。
光…、すなわち〈永瀬光〉。
かつてのPPT出版社の同僚であり、現SSH社長、世界を手中に収めたミカエルと意志を同じくする者と同一人物である、そうあずみは言ったのだ。
それに満足したような笑みをこぼし、建は埃を払うような仕草を見せゆっくり立ち上がった。
「ついてきてください。
案内しますよ、ミカエルの元に…
神の玉座に…ね。」
言うと、天より彼らが螺旋を描きながら舞い降りてきた。
AシリーズT1。SSH社長の親衛隊である熾天使と呼ばれる上級天使達であった。
「お迎えにあがりました。建様。」
建はうなずくと、E-9装備を解除し、その場に脱ぎ捨てた。
「彼らは客人だ。後からもう二人来るから全員応接室に案内しておいてくれ。」
建の言葉に熾天使らはうなずき、先頭を歩き出した彼について歩き出した。
「ボク達、ついていくしかないようだね…」
あずみは皆を促し、彼らの後を追った。
案内と言ってた割には敵を置き去りにした彼らの気が知れないと思ったが、その理由はすぐにわかった。通路の全てにAシリーズが待機しており、彼 らが迷わないよう…いや、余計な事をさせないようにだ。もっとも破壊活動を始めたとしても何の被害も効果も与える事が出来なかったろうが。
一方通行となった通路を歩きながら、今から臨む会見への不安を払拭させようとぽつぽつと話しを始めていた。
「一体、どういう事なの?」
倉本はたまらず石崎に問いを投げつける。しかしいつもの調子でつっけんどんに、奴が言った通りだよ、と返してくる。いつもなら倉本も言い返すのだが、新堂の落胆振りを見て気持ちも萎えていた。
「らしくねぇな。両手が開いたんだから俺を殴ったらどうよ?」
それに気付いた石崎は柄にも無く倉本を励ましていたが、らしくなさを感じて次の言葉が出ずにいた。
「私に優しくしたって四〇〇%何も出ませんからね。」
「はン、その時は無理矢理押し倒してやるよ。」
通常回線から流れる微妙な会話があずみと凪喪をハラハラさせていたが、二人は別な事で手一杯であった。
「どう?ゴーレムは確保出来るかな?」
「まぁ何とかネ。
リンクは切れてないし、転送出来そうだけど…どうする?」
「ん~いや、いいや。
あの通路に擬似プログラムでバイパスを作ってゴーレムに誰も近づけないよう隔離するだけにしておこう。
転送で迷子になられても困るし…」
「でも、なンの為にあんな失敗作を確保するの?
もう乙夏君達のデータが破壊されてしまったのに…」
「最後の可能性だよ。」
接触回線で交わされた言葉とあずみが持った希望は、先のミサヲが持った不安の種と同じ物であった。しかし現時点でそれを確信としてもてている者は唯一人しかいなかった。
「ねぇ、真ぉ~
そろそろ、そのスタイル止めたら?」
E-9スーツ間でしか通じない通常回線から流れたその言葉に倉本は激しく反応する。激してあずみに詰め寄ろうとしたが、石崎に腕を引かれて止められた。そしてあずみに乗った石崎は続けた。
「そうそう、マコやん芝居が下手なんだから無理すんなって…」
軽口にも似た二人の言動に、倉本は戦慄き、凪喪はあっけにとられていた。
幼馴染の域まで到達出来よう筈も無い二人は、励ますならもっと言い方があるだろうに、と思ったのだ。ただ、今の状況ではその励ましも無意味になるだろうとも感じてはいたが…
「ばれるか?やっぱり?」
あっさりと新堂が認めたため、二人は二度驚く事となった。
そしてエレベーターに入ると、新堂は全員のスーツとケーブルによる直リンクでの接触回線で話しを始めた。
「建が光なら、俺達は無傷でミカエルの前に行けそうだ。
奴は危機管理がなっちゃいない。
良過ぎる頭とそれを過信するくだらない矜持を持っている限り…
おかげで、ミカエルも技術開発部三課の一室に灯が入っている事を見逃している。
あずみ、ゴーレムの全データを三課の一から九番の生体槽に転送。
彼らが俺達人間の最後の切り札になる。
だが、なるべく彼らには力を封じたまま生き延びて欲しい。
その為にも、俺達は命に代えてもミカエルを破壊する。
スマン皆、俺に命をくれ。」
皆の回答は、何を今更、であった。
唯一絶対の存在の元に統一された世界を望む天使達…
力有る者が旧き者を駆逐する、力のみを真理とする世界を望む堕天使達…
どちらにも属さず、また属し、混沌をその身に宿しながら、自分は何者かを求めてなお生き続ける人間達…
この時、自分達が何を成すべくして生まれてきたのかをはっきりと自覚できた彼らは幸せだったのかもしれない。
電子的なベルの音が密室のエレベーターに響く。
この鐘の音が彼らにとって福音となるか、葬送の鐘となるか…
五人は扉をくぐる。
時代が変わり、人の生き様が変わってしまう未来に向けて…

(最終話『壊れていくこの世界で……』了)

 

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【Real-Side】第九話『生誕、死、そして消滅』

  記録者 真枝 神曲


この数年間、新堂真の心の中には、常にミカエルへの反旗がたなびいていた。
しかし今、その旗は彼だけでなく、彼の仲間達の心にも同様に在った。
彼らはEMERGENCY‐LEVEL9の装備に身を包み、現実世界における、ミカエル達大天使の配下、ANGELシリーズT9と戦っている。彼らは、たった九人の反乱軍なのだ。そう、たったの九人。だが彼らの肩に掛かる〈人間の未来〉の数は数多であった。
多くの人間が、何も知らず、日々を生きている。その存在が人外の存在、ミカエルによって統治されているとも知らずに。
そして、その体制に反する二つのレジスタンスが立ち上がったことにも人々は気付かずに居る。一方…藤守ミサヲの側は人間をミカエルの統治から解 放しつつも、人間達自身を人外のものへと変えてしまう術を選択し、もう一方…新堂の側は、人間を人間のままで、ミカエルの統治から解き放とうとしていた。  その為には、二つの反乱軍が、それぞれ、互いよりも早くミカエルと同等に戦えるような勢力へと成長しなければならなかった。そこに到達する術は、藤守に 於いてはサタンの誕生であり、新堂に於いてはDWゲームを進行させ、ミカエルにより接近することであった。


☆  ★  ☆


『神詞、欲しいモノがあるんだけど…』
その女は、その時、表情の無い冷たい声の中に、少しだけ甘さを含ませていた。それが、彼に違和感を覚えさせ、女に対して問い掛けをさせることとなった。
『何だ? 欲しいものって?』
女は、答える。
『あなたの精子』
身も蓋も無い女の言動に呆れつつ、彼は女の要求の意図を察する。
『今度の研究は何だ?』
二度目の彼の問いは、彼が察した彼女の要求の意図の答え合わせでもあった。そして、それは正解だった。女のたてたシナリオの上では。
女の真意は別の所に在った。
真意を知らぬまま、彼は女に自分の精子を提供した。
その直後。
女は、彼の前から姿を消した。

そして、彼女…藤守ミサヲは今。
その胎内に受精卵を宿し、革命の序曲の鳴りだすのを待っている。
彼女の胎内の受精卵とは、彼女自身の卵子と、嘗ての同僚にして恋人、東城神詞の精子を人工受精させたものにオリジナルSを融合させたものである。
ここには…既にDWゲーム内の藤守まりあの胎内からA‐Osと融合した受精卵がダウンロードされており、あとはサタンの一刻も早い誕生を待つのみであった。
ゲーム内受精卵のダウンロードから、どれだけ時間が過ぎただろう。まだ一時間かそこらのはずだが、その一時間は幾千年のように長かった。

ドクン。

無言であった受精卵が、突然脈を打ち始めた。
彼女はそっと眼を閉じ、子宮に感じる拍動を包み込むように、大きく息を吸った。
灰色の天井を仰ぐと、椅子のローラーがギシ、と音をたてた。
「……ついに…………」
「サタンが生まれる、のかい?」
彼女たった一人の研究室に、男の声が響く。
「…久しぶりだね、藤守ミサヲ」
「……PPT社の頃以来ね。真枝神曲」
「研究にしか興味の無かった堅物の君が、まさか子供を産むことになるとはね」
皮肉じみた真枝の言葉を受け流し、彼女は真枝に語りかけているとも、独白ともつかないつぶやきを洩らした。
「もうすぐよ。あと十五分もすれば、この世にサタンが生まれる。ミカエルの統治は、終焉を迎えるわ」
彼女はまもなく生まれる子を宿しているとは思えぬ腹に手を添え、軽く撫でた。
「果たして、そううまくいくのかな?」
「…新堂真のこと?」
彼女の眼は、虚空を見つめ、この世の何をも映していなかった。その眼に映るは、彼女がこれから創りださんとする彼女によって統治される理想郷としての悪魔の帝国。
「!…それは………」
彼女の纏う濃紺のワンピースの裾から、何か、小さなものが、びちゃっ…と落ちた。
真枝の眼に、それはまだ誕生に適さぬ、まだ人の形すら形成していない胎児のように見えた。
そして、それは正解であった。
濃紺のワンピースの裾、正確には藤守の股の間から生まれ落ちたそれは、驚くべき早さで、人間の胎児の形をつくり、やがて十月十日を母胎で過ごし た胎児と同じような姿へと変貌した。しかし、その腹部より繋がった臍帯や胎盤は、赤い鮮血の匂いではなく、壊死し、腐乱した赤黒いものと化し、悪臭を放っ ていた。胎児の纏う血液と羊水もまた、同様に黒色で、アルビノのように白い胎児の膚を、墨汁でもかぶったように黒く染めていた。「…………これが、サタ ン」
キリスト教によって伝えられるところの、悪魔の特徴のひとつ、悪臭というのがこの匂いなのだろう、と真枝は思った。
腐乱した臍帯は、さらに成長を続けるサタン自身の手によって簡単に引き千切られた。 急速に時間を消費して、どんどん成長していくサタンの変化が、次第に速度を落とし始めた。
サタンとしての、あるべき姿へと、近付きつつあるのだ。
サタンはまだ、眼を開いていない。おそらく、彼があるべき姿へと到達した時、その眼は開かれる……。
手足が伸びきった頃、彼はその身に唯一纏っていた腐った血液と羊水の膜を魔王の装束へと変化させ、また、臍帯と胎盤を背中の猛禽のような黒い翼に変え、そして成長を完全に停止した。
顔を覆っていた黒い髪が、風によってでも、誰かの手によってでもなく、自然に払われた。自ら白く発光し始めそうな程の白晢の膚には、一点の曇りもない。
目蓋が小さく痙攣した。
それを見て、真枝は息を呑んだ。
藤守は椅子より立ち上がり、サタンを見つめ、そして高らかに、革命のファンファーレのように、彼女は叫んだ。
「さあ! 目覚めなさい! 新しい帝国の王よ。御前が最初にすべき使命を果たすのよ!」
その声に反応したかのように。
ゆっくりと。
今、サタンが覚醒する…


☆  ★  ☆


『全員、生き残れ』
新堂真はそう言った。そして誰も、死ぬつもりなどなかった。
彼らの纏うE‐9の装備は確かに彼らの身を守っていたし、研修時に身につけた戦闘の技術は、実践において役立っていた。
機械の天使達が、一人、また一人、意志を持たぬ機械の塊へと化し、地に倒れていく。
「…しかし…こんなに居ちゃあ、きりが無いですね…」
他の者達よりも研修期間の短かった妙崎は、しかし持ち前の頭脳を生かしてか、うまく戦っていた。
「ああ、まったくだ」
同意する新堂の後方では、東城が、くそっ、と毒づきながらも敵をまた倒していた。
「…………っ……!」
ぴたり、と一瞬、東城の動きが止まった。
「どうしたの? 東城くん?」
御名神の問いにも反応せず、彼は天を仰ぐ。彼らの周囲の機械製天使達も、同様に上方を見る。
そして残されたDWチームの面々も、それに倣った。
鳥のような影が、彼らの上を通過していった。
「何っ……」
「何あれ?……人?」
「いや、違う……見ろ、翼だ」
「……天使?」
「あれは………」
空を舞う飛行者は、緩慢な動きで、下降を始める。
新堂は、古びたカセットテープに録音されたような、歪んだ賛美歌が聞こえてきた気がした。
「魔王だ」
黒い翼をはためかせ、魔王は降臨した。
地上に近付いた彼は、迷わずに、一人の人間の前に立った。
「これが…サタン、だと?」
魔王…サタンを眼前にして、東城は眼を見開き、唇をわななかせていた。
もっとも、そうした姿は、戦闘用の装備の内部に覆い隠されており、誰にも見ることは出来ない。
「なんてことだ…」
新堂は、苦々しく顔を歪めた。
「父親に、似すぎているな」
父親、それはサタンをこの世に誕生させるため、どうしても必要だった存在。
それは、東城神詞。
「…………っ」
漆黒の髪の長さや、身につけている衣服、それにその右眼が鮮やかな赤色をしていることを除けば、東城神詞の前に立つサタンは、彼そのものであった。
「始めまして。父上…」
この世に生を受けて間もない魔王は、しかし生まれながらの魔王であった。その眼にあるのはなみなみと溢れんばかりの自信、威厳……。
「さよなら」
自分自身の声とさえ思える声だったが、東城の耳には、何故か藤守ミサヲの声が重なって聞こえていた。

彼は、世界から遮断されている。
嗚呼、誰かが何か叫んでいる。
『…ち…ょう!……』
何だ? 何を云っている?
東城には、判らない。
『東城くんっ!…』
自分のことを呼んでいるらしい。
何故だ?
何だか記憶が無い。
待て。少しずつ思い出してみよう。そうだ、戦っていた。鋼鉄の天使達と。それで、何かが飛んでいた。サタン?……おれはそいつの父親……サタンは云った。『始めまして、父上…』…それから……『さよなら』
さよなら、とは、どういうことだ?
『東城!』
「東城!」
突然、彼は彼一人の遮断された小さな世界から、元いた世界へと引き戻された。
「……………あ?」
何よりも先に感じたのは、熱さだった。
そしてそれは一瞬にして痛みに変わる。
彼の体から、何かが引き抜かれた。
サタンの左手の五指の爪が、鋼鉄のような重厚な輝きを放ち、一メートル程の長さにまで延びていた。その表面が、てらてらと赤く光っている。
重厚な装備は貫かれ、穴が開いていた。
左胸が。
鎧の中で、血が吹きだした。
思わず、装備を解く。三重のジェル層は消え、骨組みはガシャガシャン、と地面に大きな音をたてて落ちた。
「さ・よ・う・な・ら」
自分の遺伝子を受け継いだ唯一の彼の子供が、笑いながら自分にその爪を向けた。避ける余裕は無く、もはやその気も失せていた。
嗚呼。
『父親に、似すぎているな』
新堂の言葉が過ぎる。
『そうでもないぜ…新堂……』
感覚は、もうどこかへ行ってしまった。彼にあるのは、外界から遮断された意識のみである。
『ちゃんと、ミサヲにも似ていやがる……』
最後に見た、子供の笑顔は、そっくりであった。子供の母親に。
藤守ミサヲに。
『笑うときのその癖、同じじゃねーか…』
脳裏をかすめたのは、右眼よりも左眼をより細める、藤守ミサヲの笑い方。
彼が最期に思ったのは、結局、その女のことだった。

DWチーム所属、元技術開発部三課、東城神詞、死亡。

「東城ぉっ…!」


☆  ★  ☆


真枝親子と、〈ゴーレム〉というアンドロイドは、互いに眼をそらさなかった。
「救けてほしい、ですって?」
「そうだ」
「……それは、君の製造元、PPT社から、ということかい?」
神曲の問いは、当たっていた。
「ほんの数日前まで、私はアンドロイド成功例の一つだった。だが、私には、製作者にとって不都合な、欠陥があったのだ。私は処分されることになった。そして、逃亡した。まだ、壊される訳には、いかなかった…」
「知っているよ。君の存在は、たしかにこの物語に必要な歯車のひとつだからね。君が存在しなければ困る」
神曲の言葉に、ゴーレムだけでなく、尊氏と信濃も驚いた。
「…何故?…知っている?
私でさえも知らない存在理由を……」
室内に、緊張が走る。
だが………
「おや」
神曲が発した声は、その緊張を崩した。
「いけない…。これから少々用事があって、出掛けなければならないんだ。二人とも、留守番を頼んだよ」
「え…?」
「ちょっと、パパ?」
「行ってくるよ」
三人の戸惑いを余所に、神曲はコートを手に取り、玄関のドアを開けて出ていってしまった。
ぽかん、と立ち尽くしていた尊氏が突然、神曲の消えた玄関のドアの前まで走った。
「……………父さん…?」
ぽつり、と呟くように云った。
「どうしたの?」
信濃が訊ねると、消え入るような声で返事が返ってきた。
「もう、会えないような気がした」
尊氏の後ろ姿が、得体の知れない不安に、小さく見えた。
「父さんと…」

神曲は、マンションを出て、暫らく駅の方角に歩いた。
「そろそろ、いいか…」
マンションが見えなくなった頃、彼は道に立ち尽くして、眼を閉じた。
すると、彼は突然、DWから跡形もなく消えて、次の瞬間には、現実世界に居た。

現実世界の彼の体はベッドの上にあり、頭に数本のコードが繋がれ、傍らのデスク上のコンピュータと繋がっている。
目覚めるとまず、コードを頭から外した。 コード接続の為に開けてある穴に、チタン製のピンのようなもので栓をする。
デスクには、昔の彼が写った写真がある。 彼の他に、六人。永瀬光。御名神あずみ。石崎直。飛鳥弥生。新堂真。
「私はただ、楽しみたいだけだ…
残念だったね、新堂……」
写真の中の、飛鳥と寄り添う新堂の笑顔に、皮肉めいた言葉を掛ける。
「期待してくれていたのかな、私に。だが、私は誰の味方でもない。ミカエルも、君も……」
最期の一人に、視点を移す。
「君もだ。藤守ミサヲ」
そして彼は向かう。
新たなる世界の統治者になる可能性を持つ者の一人…藤守ミサヲのもとへ。

灰色の天井。
灰色の壁。
女が一人、椅子に座っている。
紺色のワンピースを纏い、独白を洩らす。
「……ついに…………」
「サタンが生まれる、のかい?」
女たった一人の研究室に、彼の声が響く。
「…久しぶりだね、藤守ミサヲ」
「……PPT社の頃以来ね。真枝神曲」
やがて、彼はサタンの誕生を目のあたりにする。

「さあ! 目覚めなさい! 新しい帝国の王よ。御前が最初にすべき使命を果たすのよ!」
その声に反応したかのように。
ゆっくりと。
サタンが覚醒した。
開いたその眼は、左が黒。右が赤。
笑った。
それは、生まれながらの魔王だった。

東城神詞が、死んだ。
「……これが、最初の使命?」
「そうよ」


☆  ★  ☆


東城神詞の死と同時刻。DWゲーム内。
真枝・J・尊氏が消えた。
跡形も無く。
「尊氏?」
一瞬前まで隣に座っていた双子の片割れが、突然消滅した。
「とうじ?」
信濃は尊氏の名を呼ぶ。
「………………」
そしてすぐに、尊氏消滅の理由を悟る。
「わたし達が…架空の者だから?…わたし達が、現実に存在する者のエイリアスだから? 尊氏のオリジナルが死んだから、彼も消えてしまったというの?」
「……?」
ゴーレムは、訳が判らないといった様子で、自問自答する少女を見つめた。
『もう、会えないような気がした』
『父さんと…』
あの言葉は、現実のものとなった。
その言葉を、頭の中でゆっくりと噛みしめ。彼女は自分のおかれた状況を整理しようと努めた。
双子の片割れが、消えた。
今は、頼るべき神曲も居ない。
「ねえ、あなた」
彼女はゴーレムに話し掛けた。
「わたしにも、判ったわ……あなたの存在理由」
「何だと…」
「救けてあげる。だから……あなたには新しい真枝・J・尊氏になってもらうわ」
云われた瞬間、彼も、そのことを悟った。
自分の変身能力。
まだ、壊されてはいけない、という、得体の知れぬ使命感。
それらはすべて、今この時、この場面へと繋がるために在ったのだ。
「わたしと尊氏は…二人揃わないと、まともに戦うことが出来ない。代わりが必要なの」
少女の眼は、真剣だった。


☆  ★  ☆


クリスマスの夜が明けた。一二月二六日の朝。乙夏は結局、神代医大に入院していた。
「……陽洸達、まだ意識戻んねーのかな」
噂をすればなんとやら。
この日の昼近く、房森陽洸とともにICUで昏睡状態にある少女の意識が戻ったとの情報が、彼にもたらされたのだった。

それは、聖母(サンタ)マリアの目覚め。
また一つ、物語の大きな歯車が回りだす。

(第九話『生誕、死、そして消滅』了)

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【Real-Side】第八話『三人』

  記録者  石崎(いしざき) 直(なお)


皆、複雑な面持ちとなり声が出なくなっていた。自分達は今後の人間の種としての進化を担う仕事をしていると言う自負があった。しかし種の進化ではなく、滅亡との天秤にかけられているのだ。それは、もう以前のような気持ちで仕事が出来ない事を意味していた。
しかし、その緊張感に耐えられない人物が現れた。
「あのぉ…お願いだから、誰か喋ってよぉ…」
この話しの一番の張本人、問題の元凶、本人としては申し訳なさそうではあるが他人には鼻にかかった甘えるような声にしか聞こえない御名神あずみの声であった。
「はぁぁぁぁぁぁ…」
皆思うところはあったが、あまりのお惚けさに脱力し、誰もが思わず深いため息をついたのだった。唯一人、彼女と長い付き合いの新堂は、それを沈痛な面持ちで見ていたのだった。
とは言えそれが効を奏してか、皆の緊張がある程度和らぎ、新堂に対する質問が再び始まった。
「新堂主任、一ついいですか?」
はじめに手を挙げたのは、妙崎建であった。新堂は『意外と早く切り出してきたな』と内心ほくそえんでいたが、表情は変えずに建を促す。
「DWの崩壊が世界の崩壊につながる…って事ですけど、それを阻止する策はあるんですか?」
建の問いはその場にいた全員が思っていたことであった。しかし、ここでこの質問を建が新堂に投げかけた事には深い意味があった。その意味に気付いているのは本人達だけで、他のメンバーにとっては至極自然な問いに聞こえていた。
『単刀直入だな…つまり、これからの話しの流れ次第では〈あっち〉につく…か』
新堂は一瞬ふ…と吹き出すと、建に向けて言い放った。
「策はある…が、これを話す前に君には選んでもらわなければならない。
君は未だ研究員だ。聞くなら〈こっち〉側の人間になってもらう事となるがいいかね?」
『やっぱりそうくるよな…』
建は決断を迫られていた。
「真ぉ~、たっくんは未だ高校生だし、正社員じゃないし…これ以上は…」
あずみが建を思ってか、先ほど感じた違和感がそうさせたのか、建をチームから外すよう促してきた。しかし、新堂は本人に決めさせると首を縦に振らなかった。
「わかりました。〈こっち〉で微力を尽くします。」
「ありがとう。君が我らのチームに居てくれて助かるよ。」
「いいですよ。新堂主任はともかく、他の皆さんがヘマをやらかしかねませんからね。そんな事でこの史上最高の頭脳が無に帰するのは避けたいですからね…」
この短い会話の中に隠された言葉に皆は気付かず、建に対する非難の声が当然のようにあがったのだった。


☆   ★   ☆


「では具体的な話しにうつろう。」
新堂が皆に声をかけた時、DWナビゲーションルームの自動ドアが音も無く開いた。
「う~す…」
眠そうな、と言う表現があまりにもぴったりとしている声で挨拶してきたのは、石崎直。DW課開設当初からのスタッフの一人にして、遅刻魔人。重 役…いや社長出勤すら通り越し、会長出勤かはたまた王様出勤と言った事はざらであった。それでいて新堂の幼馴染と言うのだから始末が悪い。倉本奈那美のス トレスの種二号である。
「石崎さん!貴方今何時だと思っているんですか!そもそも、昨日は何をしていたんですか!昨日も出勤の予定だった筈ですよ!」
奈那美のヒステリックな声が石崎の脳髄に直撃し、ただでさえいつも不機嫌そうな表情で美形を損ねている石崎の表情を、更に険悪なものとさせた。
「うっせ~な、新作のRPGを早解きしてたらちょっと遅くなっただけだ!
剣聖技次元反転分離攻撃を会得する条件が解りづらいのが悪いんだ!」
言い切る石崎に皆一様に『またか…』と思い、同時に深い溜め息が漏れたのは言うまでも無い。しかし奈那美は溜め息どころか鼻息を荒くして石崎に食って掛かろうとした。
「あなたはっ…」
刹那、新堂の声で遮られる。
「〈サキ〉、出来たのか?」
〈サキ〉と石崎を綽名で呼んだ新堂は、確認の問いをした。それに無言で手を振り、石崎は応える。よし、と一声おくと、新堂は弾かれた様に全員に指示を出し始める。
「まず、凪喪君は〈A‐0s〉の確保を急げ。手段は選ぶな。二人は真枝に任せておけ。
妙崎君はシステムチェックだ。今後こちらでダウンロード、アップロードが可能かがポイントになる。必要なら書き換えても構わない。
倉本君は〈房森陽洸〉、〈QZL-BMWL〉の状況確認。
東城君は〈乙夏=モード二ス〉、〈湊七月〉の状態確認。
サキは〈伊達甲斐造〉の状況確認。
あずみは全員分の〈対E‐9装備〉を準備。その後休暇中の宍戸君と工藤君にE‐9発動の連絡。外部…いや内部に漏れないよう〈アナログ回線〉で行え。」
皆軽快に、しかし疑問を胸に残したまま〈はい〉と返事をし、キーボードをリズミカルニ叩き始めた。しかし、最後のあずみへの指示を聞いて皆は完全に手が止まってしまう。唯一人、サキを残して…
「E‐9装備だって?そんな特殊装備を何に使うってんだ!」
食って掛かる東城は完全に声が裏返っていた。
E‐9…つまり、EMERGENCY‐LEVEL9。敵対勢力による施設占拠を意味しているコードだ。今現在、施設占拠されているわけではない。 強いて挙げるなら藤守ミサヲによるハッキングが行われ、メインコンピューター〈ミカエル〉に侵入された事から、〈E‐6〉がいいところだ。しかし何故かそ れすら発動されていないのだ。現状でのこのコードの発令がされると言う事に皆は困惑するばかりであった。
「おそらく…」
新堂は慌てふためくメンバーとは対照的に、穏やかな口調で語りだした。いや、それは正確ではない。それは驚くほどに冷静な口調だったのだ。
「このプログラムをDWにアップロードした時点で、我々はPPT社の……いや、〈セブン・ストレータル・ヘヴン〉の敵となる。〈A‐3〉シリーズが我々を抹殺しに押し寄せるだろう。」
この時、話しはキャパシティを超え、誰もが完全に思考と動作が完全に停止した。そして語られたのだ。具体的な話しが…


☆   ★   ☆


新堂は、話しをしながら過去の記憶が蘇っていくのを感じていた。
そう、全ては南極に致命的な亀裂が入った西暦二〇〇六年まで遡る。その時世界の各国、企業がこぞって亀裂の調査に乗り出していた。
その中に、現在の〈SSH(セブン・ストレータル・へヴン )〉の母体となった企業…
いや、企業と呼べるモノなど何も無かった小さな地方出版会社〈パンデモニウム(P)・プロジェクト(P)・チーム(T)〉の三人がいた。
そして彼らは亀裂の中で発見したのだ。三つの水晶球がはめ込まれた王冠を…
何故こんな所にこんな物が?
皆、不思議に思い、それを回収してきた。
当然、それを公表すれば世界的な大発見だったろうが、PPTのメンバーはそうしなかった。なぜならその中の一人が気付いてしまったからだ。その王冠には三つの意志が込められていることに…
それらの意志は三人に囁きかけてきた。
「我ヲ手ニセヨ、汝ニ光ノ軍団ヲ与エン…」
「我ヲ手ニセヨ、汝ニ天ヲ覆ス力ヲ与エン…」
「我ヲ手ニセヨ、汝ニ混沌ヲ統ベル力ヲ与エン…」
それぞれにそれぞれの意志を伝えてきたのだ。三つの意志はそれぞれが反する意思を内在していた。しかし三人はそれらの意志にそのまま従いはしなかった。
三人はその王冠…とりわけ、意思を伝えてきたと目される水晶球の研究を始めたのだった。研究は思いのほかあっさりと…いや、まるでそれらの水晶球が三人に自分たちの事を教えるかのように、それらが何であるかを突き止めることができた。
水晶球は、いわば棺だった…
まず、外層は万物にそれを存在せしめているエネルギーである〈エーテル〉の結晶体で構成され、その内部には〈アストラル〉と呼ばれる思考、感情、 欲望を生み出す層があった。そして更にその深層には〈イデアル〉と呼ばれる意志そのものの層があり、エーテルとアストラルを保持していた。
これらの三層により、一体何が覆い隠されているのか…水晶球はまるでモーゼの十戒を収めた聖櫃のようである印象を受けた三人は、水晶球に〈Ark(アーク)〉と名づけた。
その後、三人がArkの中にあるものを突き止めるのにさしたる時間は要さなかった。
まるで赤子を包む産着の様に大切に包み込まれ守られていたのは、〈永久原子〉と呼ばれるものであった。
永久原子…資料記憶装置のごとく、過去のすべての生命体験を内在しており、どんな特殊な受肉に際しても過去の自らの肉体を再生させる事ができる、固体の資質を決定付けているもの、である。
三人は、はじめそれはDNAのようなものであろうと考えていた。しかし、DNAは〈物質的な肉体〉を構成させるためのものであり、永久原子はそのDNAすら書き換える力を持っている事が解ったのだ。
この時、三人は神への道程を見てしまった。しかし三人はまだ神への道を辿ろうとはしなかった。
三人は「光ノ軍団ヲ…」と語ったArkに〈オリジナルM〉と名づけ、「天ヲ覆ス力ヲ…」と語ったArkに〈オリジナルS〉と名づけ、「混沌ヲ統ベ ル力ヲ…」と語ったArkに〈オリジナルL〉と名づけ、Arkを更に研究していった。そしてそこから得られた知識や技術を応用しはじめた。メディカルテク ノロジー、バイオテクノロジー、コンピューターテクノロジー等々、様々な新技術を世に出し続けていった。すべてはArkの恩恵であった。
PPTは何時の間にか大企業となっていた。
しかしここに至って、三人のうちの一人、〈永瀬(ながせ) 光(ひかる)〉がとうとう意志の実行を始めたのだ。永瀬が触れたのは…いや、彼に触れてきたのはオリジナルMだったのだ。
その時から永瀬光は暴走を始めていた。まだ本格的に接触されていなかったオリジナルL・Sを持ち出し、直轄の技術開発部三課でArkに受肉させる 実験が行われていった。しかし、いずれも失敗に終わった。Arkでは何故かどのような肉体を与えても受肉がされなかった。エーテルもアストラルもイデアル も展開されず、永久原子が覆い隠されたままだったのだ。
しかし、それも二人目の研究参入で解決した。いや、別な道を見出したと言うべきか。藤守ミサヲの手によりArkのコピーが完成したのだ。コピーは〈A‐Om〉、〈A‐Os〉、〈A‐Ol〉と名づけられ、更にそれらを交配させる事で〈Advanced Ark〉…
通称〈AA(ダブルA)〉をコアとした〈Aシリーズ〉を次々完成させていった。勿論、失敗作も膨大な量となっていったのだが…
また、開発の過程でオリジナルMのみがデジタルデータ上で展開されることも発見したのだった。この発見により、オリジナルMを核とした次世代コン ピュータの開発に成功。〈ミカエル〉と名づけられたそれは、文字通り解き放たれた。ミカエルはAシリーズで特に力をもっていた六体―ガブリエル、ラファエ ル、ウリエル、ラグエル、サラカエル、レミエル―を自らの〈マテリアルボディ〉に組み込み、更にそれぞれに役割を持たせていった。
そう…
それはまさに天界の再臨。〈七層からなる天界(セブン・ストレータル・ヘヴン)〉であった。
これを契機に、PPTはSSHと名称を変更。同時にAシリーズの公開をした。ミカエルの世界各国の核兵器へのシステムハッキングという形で…
SSHが世界の…いや地球の運命を握り締めるのに一時間すらかからなかった。
ここに至って、残った二人…新堂真と藤守ミサヲも永瀬の暴走を止めに入った。しかしそこで二人が知ったのは永瀬の意志が奪われていた事だった。
二人は永瀬を救えなかった。それどころか二人はSSHの歯車の一つとして生きることを余儀なくされる。ミカエルは二人の命よりも大切な〈者〉を奪っていたのだ。DWの鍵という人質として…
二人はミカエルの望み通りDWを完成させる。しかし、彼らもそのまま黙っているわけにはいかなかった。テストプレーを必要とする事をミカエルに上申した。DW内に全てをデジタライズされ、鍵として生かされている一人の女性を救うために…
それを知ってか知らずか…いや、知っていたのだろう。ミカエルはあっさりとその上申を受け入れた。二人が何かをしても即座に対応できるという自信 から来るためか、それとも二人が何かをする事も計算のうちなのか…様々な憶測が二人を過ぎったが、もう後戻りはできなかった。後戻りをするつもりもなかっ た。
二人の戦いはこの時始まったのだった。

☆   ★   ☆


「さっきあずみは核と口走ったが…それは手段の一つに過ぎない。
すでにミカエルは地球上、衛星軌道上、月面、全ての軍事施設をコントロールする事が出来るからな。
問題は、藤守女史のもつウィルス…〈FDV666〉だ。
そいつはAシリーズの永久原子を書き換える。自己増殖、自己進化を繰り返し、AシリーズからAシリーズへと感染していき、最終的にミカエルを堕天させる。
それが何を意味するかわかるか?
ミカエルを始めとするAシリーズは藤守女史の手足となる。
藤守ミサヲが神となるのだ。」
思考停止した全員の頭に更なる衝撃が走り、気を失いかねない程の眩暈を感じさせた。
それは彼らに限った事ではなかった。新堂自身も語りながらそれを感じていた。
『藤守ミサヲ…君は一体何処から来て何処に行こうと言うのだ…
君は神になった後、この世界に何をもたらそうと言うのだ…
ミカエルに統治された、人外の者に管理された社会を良しとしないのは解る。
俺も同じ想いだ。
…東城?
いや、やはり弥生なんだな…』
一瞬の眩暈から瞬時に立ち直った新堂は、皆に作業を続けるよう促し、更に話しを続ける。
「彼女による、彼女の為の世界が展開されるのだよ。
だが、彼女はあくまで人間…
おそらく、このままでは彼女の制御は受けないだろう。
その問題を解決する手段は二つ。
一つは、自らにオリジナルSを融合させ、藤守女史がS…つまりミカエルと対になる闇、サタンとなる事。
もう一つは、自らがサタンの母となる事だ。
しかし、前者は危険が大きすぎる。
過去、AAの生体への融合実験で一〇〇〇人を遥かに超える犠牲を出しながら暴走に至った現実を見ても、これが行われる可能性は非常に低い。
むしろ後者が選択されるだろう。
藤守女史はまず、藤守まりあにサタン…いや、リンか。彼女の体内にあるA‐Osを回収させるだろう。
A‐Osはアップロードされた時点で既にプロテクトが解除されているため、全てのデータ抽出が可能な状態にある。
そして、A‐Osは藤守まりあの胎内に宿される。
ここで問題となったのは、藤守まりあの素体となった者、八百威咲夜の胎内に生命となる前の存在…受精卵があったことだ。」
苦々しい表情を一瞬浮かべたため、その真剣さに皆は緊張を禁じえなかった。
『全く、俺のエイリアスながら手癖の悪い…』
新堂自身は違っていた様だが…
「兎に角、おかげで意志を持つ前の細胞とA‐Osが融合する結果となるだろう。
A‐Osは自分に適したマテリアルボディとするため、DNAの配列を組替えてしまう。
今までの実験が失敗したのは素体となる肉体に永久原子が残っていたためとの説がある。
だから、人間としての永久原子が発生する前に融合させる道を取ったのだろう。
問題はこの後だ。
藤守まりあの胎内にて受精卵との融合が果たされれば、藤守女史はこちらの世界に彼女のデータをA‐Os受精卵ごとダウンロードしてくるだろう。
ダウンロード先は、藤守ミサヲの胎内に宿らせてあるだろう、オリジナルSと受精卵…
ダウンロード後すぐにそれらは展開され、現世にサタンが生まれてくるだろう。
全く、〈聖母(マリア)〉とはよく言ったものだ…」
この時、東城の中に昔の記憶が黄泉返っていた。
『神詞、欲しいモノがあるんだけど…』
心に響いたミサヲの言葉は、東城を寒くさせる。その寒さは、いつの間にか東城の歯を鳴らし、新堂に問いを投げかけていた。
「新堂…ミサヲは、何が目的なんだ?」
しかし、新堂に答えることは出来なかった。
言えよう筈もなかった。世界をも巻き込んだこの状況下で、新堂真と藤守ミサヲがもつ最終目的はあまりに私的過ぎた。
新堂は東城に答えず、話しを続けた。
「しかし、生まれてくるのはミカエルと相反する者サタン。
マリアと言うよりは、アンチ・マリア。
さしずめ、〈リリス〉と呼ぶべきだろう。
胎内のサタンは、自分が生まれいずるまで母たる藤守ミサヲを守るだろう。
その為にサタンは、藤守女史自身にも自らのデータをダウンロードし、藤守ミサヲはリリスそのものとなる。
これで、堕天したAシリーズの頂点に立つ資格が得られる。
藤守ミサヲはこれで神となった…
だが、これはまだ現実ではない。
これを阻止するのが俺達の役目だ。」
ここまで来て、ようやく藤守ミサヲの手段は全員の共通の認識となった。未だ目的は新堂の胸の内だが…
「でも、違うんでしょう?」
声をあげたのは妙崎建であった。
「システムの書き換えは完了しましたよ。
今のところミカエルから何もリアクションはありません。
で…
新堂主任はミカエルに従わないんでしょう?
その為に、同じ力を手に入れようとしている。
貴方はオリジナルLを展開させるつもりですね。
恐らく、貴方のエイリアスである乙夏=モードニス自身に…」
新堂は建の言葉にうなずき、石崎から受け取った一枚のディスクを取り出した。
「これは、A‐Olのオリジナルディスクだ。
サキによって展開プログラムが付け加えられている。
そのプログラムとは、妙崎君が指摘した通り、乙夏に展開させる。
彼だけではない。湊七月、伊達甲斐造、房森陽洸、他にも多数いるが、彼らに融合させるためのモノだ。」
それを聞き、訝しげな表情を浮かべながら聞き返したのは、乙夏と七月のスキャンが済んだ東城である。
「乙夏と七月は現在、命に別状なし。自宅の方面に向かって移動している。
で?俺達は藤守が行わない危険な道をゴリ押しするってのか?」
「いや、A‐Olのデータは人に収まる容量に分割されている。
これは、藤守女史が選ばなかった手段を取るのではなく、第三の手段だ。
ミカエルは自分に都合の良い肉体を無機体に求めた、機械の天使軍団。Aシリーズがそれだ。
藤守女史は自らの肉体を差し出し、サタンを有機体として現世に新生させる。伝説に言われる悪魔が黄泉返るわけだ。
そして我々は、人としての意志を失う事無く、A‐Ol…ルシフェルの能力を受け継ぐ者達を作り出す。」
ここで、倉本が房森とQZLのスキャンを終わらせ報告をしてくる。当然思った疑問も口にしてきた。
「房森陽洸とQZL-BMWL、両名神代医科大学のICUにいます。未だ意識が回復していません。
…失礼を承知でお聞きします。
新堂主任は人の意志とおっしゃいますが、藤守ミサヲは自分の意志を保持できていないんですか?」
「いや、彼女だけは自分の意志を失う事はない。永久原子に新しい情報が書き加えられはするが、全て書き換えられるわけではないからな。
しかし、他の受肉はそうもいかない。サタンの永久原子に適した肉体が構成されてしまう。我々が〈暴走〉と呼んでいた状態になってしまう。
人の姿をまず留めはしないだろう。
…我々は、そうはなるわけにはいかない。
藤守女史と同じ〈ハイブリッド〉、白でもなく黒でもない…灰色の定めにある人間の力で世界を生きていかなければならないんだ。
その為に、ルシフェルの永久原子情報が分割され、ルシフェルの意志も介入してこない、能力のみが抽出されるArkを乙夏らの身体にダウンロードするのだ。」
言いながら、新堂は創世記に描かれた楽園追放のエピソードを思い出していた。
『エバは最も古き蛇に唆され、知恵の実をアダムと共に食した。
ルシフェルは人が生まれた時から、神からの自律を促してきた。
過去に人が知恵の実を与えられ、今回はArk…生命の実が与えられた…
尊氏と信濃に暴走は見られない…
能力も上手く使っている。
これもまたルシフェルの意志なのかもしれないな…』
しかし、うつつをぬかしていられるほど現在の状況は芳しくなかった。むしろ悪化の一途を辿っている。続く凪喪憂子の報告は致命的であった。
「主任!つ、通信です。
藤守まりあがコンタクトしてきました!」
DWナビゲーションルームに戦慄が走る。
皆が立ち直るよりはやくディスプレイが揺らぎ、天を仰ぎ見る藤守まりあが映し出された。一糸纏わぬその姿は、未成熟だが緩やかな曲線を描いてお り、肉体そのものは十代のそれであった。しかしその未完の女体に人とは思えぬほどの艶やかさを同居させ、透き通るまでに蒼い躯をしならせていた。
「見えているんでしょう?
ふふ…この世界でのサタンの卵はここ…」
天を仰いだその手にはA‐Osが握られていた。
それを見た新堂は一瞬苦虫を噛み潰した表情を見せる。
『くっ…神曲達は間に合わなかったか…』
悪戯っぽい笑みを天に向け、まりあはゆっくりとA‐Osを握った手を下腹部におろしていった。一瞬ぴくんと躯を痙攣させると同時に、天使の卵は胎内に飲み込まれ、人の卵と交わった。
「…んっ…」
まりあに痛みは無かった。むしろチリチリとしたかすかな刺激は心地よく、まりあの肢体を脱力させ、その場に跪かせた。まりあの頬は紅潮し始め、瞳は虚ろとなっていたが、再び天を仰いでいた。
「…い、今なら私達を倒せるわよ。
どんな英雄でも、エクスタシーを感じ…る、瞬間が最も無防備になる瞬間…なんだから…」
しかし新堂らに行える手段が無く、まりあの行動と言質は最大限の皮肉を孕んでいた。
「…ぁんっっ…」
一瞬の喘ぎの後、大きな波がまりあに押し寄せ、飲み込まれた。まりあ自身も自分で信じられないくらいに大きな嬌声をあげていた。
ビクンビクンと小刻みに肢体を震わせ、まりあはうずくまっていた。その身体に異変が現れたのは間隔の広がった痙攣が消えかけたその瞬間であった。
大きくビクンと震わせたかと思うと、その身体は大地の鎖を断ち切られ、何の支えもなく宙に浮いていた。蒼い肢体は光に包まれ、右太股の内側に刻まれた紅い痣は蛇が地を這うように全身に広がっていった。
そして、再び地に降り立ったとき、まりあは人の身からリリスへと変貌していた。
「ふふ…」
瞳から漏れる艶やかな光は、新堂らを挑発しているかのようであった。いや、実際そうであった。
「待っていなさい。今から〈そっち〉に行くわ…」
言い切るやいなや、ディスプレイは再びゆらぎ、落ち着いた時には、そこにまりあの姿はなかった。
サタン降臨の儀式が第二段階に移行した瞬間であった。
ダンッッ!
端正な顔を苦々しく歪めた新堂は、握った拳を感情のおもむくままディスプレイに叩きつけていた。
おそらく、あずみと石崎以外ははじめて見ただろう、新堂の感情的なその姿を見、いよいよ最悪のシナリオが動き出したのを感じていた。
「…時間がない。あずみ、E‐9を急げ。」
しかし持ち前の立ち直りの早さをみせつけ、再びいつもの新堂にもどりつつあった。指示に反応し、あずみはナビゲーションルームの床に跪く。そして、コンコンと軽くノックをし、軽快にキーワードを紡ぎ出した。
『もうすぐお茶の時間ね。真は紅茶が大好きなのよね~。でもね、無粋な泥水は大嫌いなの。コーヒーと名の付く物は意地でも飲まないのよ。でも聞い てよ。キャラメルマキアートとキャラメルフラペチーノ、あとモカフラペチーノは飲めるって言うのよ。あれだってコーヒーなのにね。』
すると、床に赤い光線が走り、〈EMERGENCY〉の文字が浮かび上がる。光線が文字の上に人がいないのを認識すると、音も無く床がゆっくりと持ち上がったのだ。そこには人一人が入るほどの大きさのツールボックスが一〇ケース収められていた。
「真ぉ、おっけぇよ。梨華ちゃん達にも通信出したよ~」
あずみのあっけらかんとした態度とそのキーワードに一同脱力したのは言うまでもない。
しかしそこはそれ、いいかげん彼女の行為に慣れたのか、現状が和みを与えてくれないためか、皆の立ち直りも早くなっていた。
「了解した。
凪喪君、現時点よりDWプレーヤー主要メンバー全てのナビをしてくれ。
集結ポイントは〈神代医大QZLの病室〉だ。
他のメンバーは対E‐9装備着用。」
新堂の指示が再び飛ぶ。凪喪憂子以外のメンバーは席を立ち、コンテナに手を掛け装備を取り出す。
それは、俗に言うパワードスーツと呼ばれるものだ。しかし、見た目には機械の塊にしか見えず、戦闘用とはかけ離れた外観となっていた。おそらく、 初めて見た者は眉間にしわを寄せた事だろう。実際彼らも研修時にその疑念を抱いていた。だが、今ではそれが自分の身を護ってくれる事に疑いは無かった。
機械の塊の中に、両の手形と仮面様の窪みがあり、そこに手と顔面を入れることで封印が解かれる。機械は息を吹き返し、まるで生きているかのように東城らの身体を被う。しかしその表面は、未だ機械部や関節が露となっている。
「〈アストマ内層〉展開」
機械音声がなると同時に、ルビーのような赤色のジェル状の物質が全身を被う。
「〈エテューマ中層〉展開」
続いてエメラルドグリーンのジェルが吹き出し、赤を覆い隠す。
「〈アッシャー外層〉展開」
最後に現れたのは、鏡と見紛うばかりの白銀色をしたジェルであった。それは瞬時にして一つの形となった。
表面は一つの突起も無く曲線を描き、鏡の様に風景を身体に映し出す。それはレーザー等の光学兵器を反射させる事が目的なのである事は自明だっ た。また幾層にも張られたジェル層は、物理衝撃に強い耐性を見せる事だろう。その内層ジェルも念の入ったもので、エーテル非伝導物質であるエテューマは、 エーテルを主とする魔法、魔導兵器を無効化させるものであり、アストラル非伝導物質であるアストマは、アストラル系…すなわち精神に直接影響する魔法等を 無効化させるものであった。さらにそれらに覆われ、背中に大きくせり出した部分は〈EAジェネレーター〉であり、対E‐9装備の全てのエネルギー源となっ ている部分であった。そう、ここまでの装備は対人間では必要がない。まさしくAシリーズに対抗する為だけに造られたものであった。
かくて、新堂らDWチームの面々は第三勢力となった。
ルシファーの力を利用し、人が人の意志を持ったまま生きている世界を求め、神の意志代行者たるミカエルと神敵サタンの戦いに生き残る為、参戦する事となった。
新堂が持つディスクをDWシステムにアップする事で全ての戦いが動き出す。
新堂は思う。世界の形が理そのものから変わってしまうスイッチが新堂自身の手に握られている事を。たかだか数年前なのに、地方出版社の物書き だった頃をひどく懐かしく感じている事を。『時が移り、所が変わろうとも、人の営みは変わらない。』そんな言葉が通用する時代が終わろうとしている事を。 今まで自分の目的以外無関心であった新堂ですら、いくばくかの想いが込み上げてきたとでもいうのか。いや、そんな事は無い。それがなんだというのだろう。 新堂自身、そんな想いはとうの昔に捨てていた。目的達成の為なら世界が変わろうと知った事ではない。
「始めよう。我々が生き残るために。」
『そして、弥生ともう一度出逢う為に…』
新堂から、最後の指示が発せられた。
「全員、生き残れ。」
ディスクがドライブに飲み込まれ、カリカリと読み込み音が響く。それはDWのみならず、現実世界をも巻き込んだ大きなうねりとなる歯車の音に聞こえた。
始めは、たった三人だった。三人は三人に出会い、一人は幾千の駒を手に入れ、一人は幾千の母となり、一人は幾千の同胞を得る事となる。
物語は、今ようやく動き出す。

(第八話『三人』了)

 

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【Real-Side】第七話『メシアとサタン』

  記録者 凪喪(なぐも) 憂子(ゆうこ)


乙夏の閉じ込められている倉庫の扉が開き、薄暗い室内に朝の光が差し込んだ。
その黄金色の光を背に負い、逆光で真っ黒な人影が二つ、扉を通って乙夏の傍へと歩いてきた。一方は七月、もう一方は咲夜…ではなく〈藤森まりあ〉だった。
朝日の陰になった処に入り、やっと乙夏に確認できた七月は、哀しそうに眉を寄せ、唇をかたく結んでいた。よく見ると、眼は充血し、顔にも赤みがさしている。察するに、どうやら泣いていたようである。乙夏はこの幼なじみが泣いている姿というのがまったく記憶に無い。
「…………なつき…」
「…あ、うん……お待たせ、乙夏。ちゃんと助けに来たわよ」
七月はまりあに目配せし、まりあは渋々頷いて乙夏の身体を拘束している縄をほどきに掛かった。七月には触れることすら出来なかったそれを、彼女は簡単にほどいてゆく。
一夜明けてやっとのことで芋虫状態から解放された乙夏は、ギシギシ痛む身体中の関節をゆっくりと曲げ、時々いてて、などと云いながらやっと地面に直立した。
一度、七月の顔を見る。まだいつもの気丈さを取り戻さない彼女に、ありがとう、と一言言葉を掛けた。七月は返事を声に出さず、頷くだけだ。
それから、余裕の笑みを浮かべるまりあに眼を向ける。あまりにもそっくりだ。咲夜に。一卵性双生児とかの比ではない。姿形だけなら、全く違いは無い。そう、咲夜〈そのもの〉なのだ。
「……藤守…とかいったな、あんた…」
「まりあ、でいいわよ」
嫣然と微笑む彼女は、その先に一言、言葉を紡ぐ。
「私は、この世界に遣わされた〈聖母〉」
実に堂々としていた。朝日の後光を背負い、自ら聖母を名乗る。
「この娘の身体を借りて、ね」
「え……」
〈身体を借りて〉今確かにそう云った。では、藤守まりあとしてこうして立っているその身体は、本当に八百威咲夜のものなのか。
「私がこの世界に遣わされたのはつい、昨日のこと。まだ一日も経過していないのよ。殺された恋人が一夜の間をおいて聖母として復活…素敵で素敵で吐き気のするストーリィでしょう?」
「じゃあ、……咲夜は?」
七月が訊ねた。彼女の眼には少しの希望の光が灯っていたが、それに対するまりあの返答は冷酷だった。
「死んでるに決まってるじゃない。この身体は、一度死んでいたのを私が貰ったの。傷も全て治したわ。かつて別な女の身体だったとしても、私は私。乙夏君、貴方の恋人はもうどこにも居ないのよ」
咲夜の顔で、咲夜の声で、そう云うことを云うのだ。乙夏と七月は打ちのめされた。
「……それじゃあ、貴方の縄もほどいたし、私は用済みね。また逢いましょう。……もっとも、この世界がその時にまだ存在していたらの話だけれど」
意味深な言葉を残し、まりあは倉庫を去って行った。乙夏には、それはこの世界の存在が危うい、と云っているように聞こえた。
茫然としてその背中を見送る彼の脳裏に、いつかの咲夜の声が響いた。
『あたしは物事に執着しないの。だって、失った時に悲しいもの…』
そして、思った。そんな咲夜は例えばこの世界を失う時、悲しまないのだろうか、と。
しばらくして、ひとまず二人はそれぞれの自宅に帰ることにした。最近は急激に色々なことがあって、妙に一日が長く感じる。
二日ぶりに帰った家は、何だか懐かしかった。最後にこの家を出たとき、彼にはまだ彼女とデートの約束をし、朝寝坊をし、慌ただしく出掛ける平穏があったのだ。
たった四八時間前の平穏が、遠い。限りなく遠い。
そんな感慨にふけっていた処に、頭の中で声がした。
『こんにちは! 乙夏君』
何だか少年のような女の声だった。テンションがやたら高い。新しいナビゲーターだと思い、こんにちは、と気の無い返事をした。
『私は凪喪憂子。本来は君のナビは担当じゃないンだけど、ちょっと現実世界が立て込んでてサ。ま、取り敢えずよろしく』
「はあ…」
別なコのナビも並行してるから、ちょっと大変なンだよお、あとで主任と東城に何か奢って貰わなきゃ割りが合わないよネ、などと乙夏にはどうでもいい世間話をする。
『ところで、早速なんだけどサ、君、倉本の云ってたこと、覚えてる?』
「クラモト?………誰?」
聞いた名前のような気はするが、思い出せなかった。
『まあ、名前はいいや。もうあいつが君のナビに介入することは無いと思うし。東城が怒るからネ。この前なんかさア……』
「いいから本題に入ってくれよ…」
この凪喪という女は、どうしても話題が他の方向にずれていってしまうらしい。彼女の話相手は、それを機動修正してやらなければいけないのだろう。
『えっと、房森陽洸君とQZL-BMWLちゃんが神代医大に居るって聞かなかった?』
「…聞いた。でも行く途中で藤守に捕まってたからなあ………すっかり忘れてた」
『じゃあ、これから向かってみてくれる? ついでに君の怪我も診て貰った方がいいよ』
医大の受け付けにあるカレンダーを見て、乙夏は今日がクリスマスであることに気付いた。最悪のクリスマスだ。
陽洸は面会の出来る状況でなく、隣のQZL-BMWLも同様だった。そう云えば、彼女に出された〈問題〉は今だに解けていない。今の今まで〈出題〉されたことすら忘れていた、というのが実際の処だが。
受け付け前の椅子にもたれ、問題を解こうとする。彼女の本名がわかったら、助けてくれる、と彼女は云っていた。……何から?
「…〈クズル・ビメヲル〉……たしかアルファベットで書くんだったなあ…綴りは…」
思い出せない。いくら何でも、口頭で一回きりしか云われていない、しかもあの慌てていた頭で、そこまで覚えていられるはずが無い。読みを覚えていただけでも奇跡だ。
「…あー……クソッ…。えー…クズル、だろ? QだかC…で、Z……」
「Q・Z・L・B・M・W・L」
頭上から、少女の声が降ってきた。
「ああ、どーも……って、え?」
顔をあげた彼の前に、中学生らしき男女が立っていた。豪く異彩を放つ二人だった。
顔がよく似ている。人というよりは可動人形のようである。陶器のように白く滑らかで赤味の無い膚。黒眼がちの大きな眼は長い睫毛にふちどられ、鼻筋が顔を対称に分け、唇は鮮やかに赤かった。眉は吊り気味で濃く、顔全体を引き締めている。
少年は黒髪を長めに刈り、学ランに黒いスニーカー。首に巻いた十字模様のマフラーのみが、その膚と同じく白い。おそらくは神代中学の生徒だろ う。乙夏もそこを出ている。 少女は、肩くらいまでの緩く巻かれた漆黒の髪で、前髪は眉の辺りで切り揃えてある。黒一色の細身のワンピースは、学校法人聖 新学苑の制服だ。細い脚には黒いタイツに同色のブーツ。よく見ると、二人とも黒い手袋をはめていた。
徹底したモノトーンだ。唇の赤のみが有彩色である。整いすぎて、まるで人形だ。
暫時、乙夏は絶句した。
「Q・Z・L・B・M・W・L。彼女の名前がわからなければ、助からないぜ」
「……聖夜に降臨した聖母は、この世に破滅をもたらすわ。彼女に、堕とされた天使のしかばねを渡してはならない」
二つの赤い唇が紡いだのは、乙夏の頭の中に巧く響かない、難解な言葉だった。
「この世界の創世神に、手を出してはならない。天国であり悪魔の巣窟である場所に足を踏み入れてはならない。気を付けるんだね…乙夏=モードニス」
「あっ、おい!」
少年と少女は、くるりと方向を変え、乙夏の前から去って行った。乙夏の呼び止める声に、耳も貸さない。
「………何なんだ…?」
一人とり残された彼には、更に多くの謎が残されてしまった。
彼はまだ、モノクロームの少年少女の言葉が、崩壊の予言であると気付いていなかった。そして、その崩壊の阻止を自分の腕に委ねられていたことにも。

☆   ★   ☆

神代医大を出たモノクロームの二人は、医大の駐車場に向かい、そこで一人の男が、二体の異形の化物と戦っていた。
化物は人間の女性のような形をしていたが、膝より下が無く、背中から翼を生やしていた。一体は片手に両端の尖った槍のようなものを持ち、片手は 腕がまるで〈輪切り〉にされたようになったまま、腕の形を作って宙に浮かんでいた。もう一体は両腕ともに肘から手首までが無く、その先に浮かんだ手は自在 に動くようだった。赤と紫。ヴィヴィッドなボディ・カラーが空中に浮かんでいる。
始めに男に攻撃を仕掛けたのは片腕が〈輪切り〉になっている方で、槍の先端を男に向け、常人の眼には赤い残像となる速度で向かってきた。男は、自分の目前まできた赤い残像に対し、ただ飛び回る虫を払うかのように片手を振った。
すると化物は頭部と胴部を引き離され、地面にどさ、と落ちた。
同時に、もう一体が男に攻撃しようとしていた。
「父なる神の御名において命じます!
〈追放者〉に天使の翼を与え給え!」
少女の声が、高らかに空気を揺らした。
その余韻の消えぬうちに、少年は背の白銀の翼を羽撃かせ、手にした小さなロザリオで残る化物に切り付けた。一回。二回。三回。四回。五回目で化物の身体からは炎が吹き出し、地面へと崩れた。
「やあ、もう用事は済んだのかい。〈ジョフィエル〉に〈ハダーニエル〉」
男は微笑を少年と少女に向けている。少年の背からはもう翼が消えていた。
「パパ!」
少女は、少し拗ねたような声を出し、〈パパ〉と呼んだその男に駆け寄った。
「もう、ちゃんと信(し)濃(の)って呼んでよっ」
「はいはい。信濃」
ゆっくり後から歩いてきた少年が、頭を掻いて唇を尖らせる。
「……やっぱり、強いなあ。父さんは」
「いや、尊(とう)氏(じ)も強くなったよ。私の教えたことを、しっかり身に付けている」
少女の名は、真枝(さなえ)・H=信濃。
少年の名は、真枝・J=尊氏。
そして、男の名は、真枝神曲(しんきょく)。彼こそは、乙夏=モードニスと湊七月が要石でロボットに襲われた時に彼らを救った男である。彼が湊七月と遭遇することがあれば、七月はすぐに気付くだろう。
「救世主が目覚めてから四八時間。聖母が降臨してから二〇時間弱……か」
止めてある真枝神曲の車に乗りながらも、彼らは会話を続ける。
「乙夏=モードニスは自分の使命に気付くかしら」
「おれは〈気付かない〉に一票」
尊氏が軽く手を挙げて云った。
「でも、彼にだって、わたしたちと同じく、〈現実世界〉にナビゲーターが居るはずよ。その人から教えられて気付くのではない? わたし、〈気付く〉に一票」
「どちらにせよ」
運転席の神曲が、エンジンをかけながら話し掛ける。
「この世界の命運は、彼に委ねられたんだ」
しばらく車を走らせた彼らは、やがて彼らが住んでいる〈メゾン・ド・天照(テンショウ)〉というマンションに到着した。彼らの隣人は八百威とい う変わった姓の一家が住んでいる。その家には高校生の娘が居たが、その娘は二日前に出掛けたきり帰って来ていない。(実際にはその娘はすでに殺されている のだが、その身体を利用している者が居るために多くの人間に発見された死体は姿を消し、今も別な者の精神を伴って歩き回っているのである。)
娘を心配した両親は警察に捜索願いも出したが、手がかりは掴めていない。隣家のドアの向こうに心配と不安を感じ取りながら、そこを通過し、自宅のドアの鍵を開け、中に入……ろうとした彼らの頭上を、一羽の鳥が飛び、部屋の中から出ていった。
なぜここに鳥が、という刹那の疑問。しかしそれは次の瞬間、答えに変わる。そしてその答えを受けて、彼はもう動いていた。
十字架の翼に刺さった鳥が、彼の足許に落下するまで、一五秒も掛からなかった。
改めて部屋に入り、その鳥をソファの上に放り投げた。鳥は見る間に、黒服の男の姿となる。十字架は腕に刺さったままだ。
「……成程。君は一度複写した姿はストックしておけるんだな。鳥になって拘束から抜け出したわけだ」
神曲は云いながらその〈拘束〉…手足と胴を縛っていた頑丈な鎖を一瞥した。
「…しかし甘かったな。出入口は、内からも外からも私か信濃か尊氏が開けなければ開けられないようになっている」
「………貴様等…一体何者だ」
「何の変哲もない真枝一家さ。君こそ、おかしな能力があるようだが、何者だい」
状況は、依然神曲有利にある。彼は男を、笑みを湛えた双眸で見つめるのみだ。
「私は…〈ゴーレム〉テストタイプA-rn……。PPT社アンドロイドの失敗作だ」
黒服の〈失敗作〉はそう云ったあと少し逡巡し、それから意を決したように続けた。
「頼みがある。私を…救けてほしい」

☆   ★   ☆

少々時を遡る。
DWゲームナビゲーター、凪喪憂子が、被験者、乙夏=モードニスにアクセスする前。現実世界、PPT社DWナビゲーションルームでのことである。
DWシステム主任、新堂真の前に、その部下の御名神あずみが小さくなって立っている。時々、上目遣いでちらっと新堂の顔色を窺っているが、対す る男の表情は崩れない。液体酸素のごとき(氷のごとき、では足りないのである)冷ややかな表情をしているが、その胸中に鉄が一瞬で蒸発するような(勿論、 水の蒸発するような温度では足りない)激しい怒りが詰まっているのは、その場に居た何者にも明らかであった。
「なんてことをしてくれたんだ……」
絞りだすような声だった。状況が最悪であるということが、その一言で全員に知れた。
「〈サタン〉の死をこんなに早めるなんて」
「おい、新堂。どういうことだ?」
堪りかねた東城神詞が、新堂の纏う憤怒をも怖れず訊ねた。その声に、新堂は少し冷静さを取り戻した。
「………あずみがDWゲーム内に送り込んだのは、〈サタン〉…あずみが開発した、一種のアンドロイドだ。人工物とは思えない精密さを持っている。 その為、サタンは〈天然エンジェルタイプ〉と呼ばれている。本当に機械が自然に出来る訳は無いから、これはあくまで〈神の手による被創造物としか思えな い〉という比喩だ。そこが、問題なんだ」
あずみは、そこに問題点を見付けられず、畏怖するように新堂を見て、首を傾げた。
「あずみじゃなく、他の〈誰か〉が造ったのかも知れない」
新堂は〈誰か〉と曖昧な云い方をしたが、それが〈誰〉を示唆しているか、東城には明白だった。その名を口にする。
「ミサヲか……」
「ミサヲって、あの藤守ミサヲ?」
彼女がDWゲーム内にハッキングしているという事実を知らない人間までも、その名を聞いてどよめいた。彼女は失踪以前から、優秀な頭脳と端麗な 容姿を持ちながら、変人の集まりである技術開発部三課をまとめあげるということで社内では有名だった。東城も彼女の許に居た一人である。
その技術開発部三課が一年前にPPT社から消え、それと同時に彼女も消息を断った。……そして今、彼女はどこからかDWゲームに介入している。
「……あずみは、何らかの方法で、自分がサタンを開発したと思い込まされていたんだ。こんなことを云うのは悪いが…あれはあずみに造れるレベルの ものじゃない。勿論、俺にも、東城にも、奈那美さんにも……。天才でもない限り…彼女、藤守ミサヲでもない限り……あの〈サタン〉は造れない」
その言葉によって室内を覆った沈黙を破ったのは、倉本奈那美だった。
「…ですが、新堂さん。〈サタン〉は、あの藤守ミサヲ女史の造ったのにしては、弱すぎはしませんか? 確かに、DWゲーム内で〈サタン〉は高い戦 闘能力を示していました。しかし一晩中動き続けたとはいえ……いいえ、それだけで彼女は既に使いものにならなくなってしまった……おかしいと思います」
「そう。〈サタン〉は元から〈弱く〉造られていた。ゲームの世界を終わらせる為に」
室内が騒ついた。皆、新堂の言葉の意味が判らないのだ。
代表して、おそるおそる御名神が訊ねた。
「ま、真ぉ。どうゆーこと?
〈サタン〉が弱いと…DWゲームの世界は滅びるの?」
「…〈SP(サタンプロジェクト)〉という計画がある。DWゲームの〈世界〉を終わらせるという目的で動いている計画だ。そしてその対となるもの として、〈MP(メシアプロジェクト)〉がある。皆には云っていなかったが、俺達はその〈MP〉に属している。知っての通り〈世界〉を守る目的で動いてい る。実は、〈DWゲーム〉は今までずっと二つのプロジェクトによって動いていたんだ」
「……どうして、〈滅ぼす〉計画が必要なんだ?」
東城が新堂の傍まで歩み寄って問うと、新堂は少し言葉に詰まり、それから答えた。
「………〈ゲーム〉だからだ。そもそもなぜこの〈地球内地球環境適応システム〉…つまりDWのテストプレーをしているか、といったら、やがて地球 上の全ての人間が、このDWに〈移住〉するという目的の為だ。だから、このテストプレーが無事に終わり、全人類が〈移住〉することになった時、そのDWに は設定されたストーリーは無い。こうして今生活しているのと同じように生きていくはずだ。あくまでそれが目的であり、〈第二の地球〉とも云うべきDWなん だから、〈日常的〉に生きていかれなくては意味が無い。今回ストーリーがあるのは、テストプレーに便乗した、設計者のお遊びさ」
「そうか………じゃあ」
東城は、更に新堂に詰め寄った。
「………〈乙夏=モードニス〉は、どうして〈新堂真〉なんだ?」
黙って、新堂は睨むような東城の凝視を受ける。
「イトデンがナビゲートしてる二人の真枝だって、〈東城神詞〉だ。QZL-BMWLや八百威咲夜は、〈飛鳥(あすか)弥生(やよい)〉になる」
イトデン、というのは凪喪憂子の綽名である。東城以外に呼ぶ者は居ないが。凪喪は、犬猿の仲である〈新堂の恋人〉の飛鳥弥生と、倉本奈那美の共 通の友人で、飛鳥と倉本の滅多に無い会話は、全て凪喪を介して行なわれる。その様子が糸電話の糸みたいだというので、東城はイトデンと呼んでいるのだ。
「この〈DWシステム〉の関係者の名が、暗号で被験者の名前にまで組み込まれている。被験者というからには、現実世界からゲームの世界に行って いる…元はこっちの世界の人間のはずだ。だが、これじゃあ…新堂、〈乙夏=モードニス〉なんて人間は、この世に存在してないってことじゃないのか?」
「…………」
「これじゃあ〈移住〉でも何でもないじゃねーか。何の為に、俺達はここで、造られた人間のナビゲートなんかをしてるんだ?」
東城の追及に、遂に新堂は重々しく口を開いた。
「〈移住〉の為の計画だと、皆に伝えてある。君達だけじゃない。上の者にも、だ」
もう、誰も言葉を発する者は居ない。ただ新堂の声が響くのみである。
「……これから云うことは、本当のことだ。今まで騙していて済まなかった。だが、これが〈SP〉との契約だったんだ。君達の中の誰かがこの〈ゲー ム〉の真実に気付くまで、何も話さないという…。そして君達は気付き、真実を知ることになる。よく聞いてくれ。〈SP〉の構成メンバーは、あの藤守ミサヲ 女史ただ一人。対してこちら…〈MP〉は…ここに居る全員…いや、この世界で生きる殆どの人間がそうだと云える」
東城の胸中には、いくら藤森が天才であるとはいえ世界中を敵に回して何をしようというのか、という新たな疑問が浮上していた。「〈SP〉と 〈MP〉…双方はさっき云ったように対立し、ゲーム世界の存亡をかけている。だが、それだけじゃない。ゲーム世界の存亡は……現実世界の存亡にかかわる」
「何だと?」
「SPが…藤森ミサヲが勝てば、〈ノアの大洪水〉が再来するのさ」
〈ノアの大洪水〉…それは、誰もが知っている有名な旧約聖書のエピソードの一つである。神が穢れた人間世界を嘆き、もう一度世界を創り直すために 人間の〈ノア〉とその一家、そして全ての動物のつがいを方舟に乗せて、洪水を起こして世界の全てを壊し、彼らのみを洪水から守ったのである。
「世界が一度壊されるんだ。新しい世界を創るために」
「……どうやって? いくらなんでも、核爆弾、とか云わないよねえ…」
そう問う御名神も真剣な面持ちである。
「世界中のコンピュータに、藤森の造ったウィルスが侵入する。詳しくは判らないが…とにかく彼女は、〈それ〉で新しい世界を創る気らしいんだ」
「…あの女……アタマ良すぎて馬鹿になったみてえだなあ、オイ。…………畜生」
東城が、そう云ってぎり、と歯軋りした。 御名神の眼に、ディスプレイを睨む彼の形相は、酷く憤っているように、そして、少しだけ泣きそうに見えた。

(第七話『メシアとサタン』了)

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【Real-Side】第六話『夜明け前』

 記録者 妙崎(みょうざき) 建(たつる)


「とにかく…、この拘束を何とかしないといけないんだよね」
「いつまでも縛られっ放しでは、彼がかわいそうです」
七月とサタンは、哀れな乙夏の姿を見て、口々に話す。

『そうだねぇ~、じゃ、二人とも、捜しに行ってくれるかなぁ?』

ナビのあずみは、のんきに二人を送り出そうとするが、
「そんな簡単に言うけど、捜すあてはあるの?」
と、七月に食ってかかられる。図星をつかれたあずみは、

『うーん、こっちでもサーチしてみるけどぉー…』

と、曖昧に答えるが。
「とりあえず、悩んでいても仕方ないでしょう。まずは、動かないと始まりません。この術を施した主の顔は、七月、分かりますか?」
「…。」
サタンに訊ねられ、七月は、先程乙夏が、「咲夜がー…」などと口走っていたのを思い出す。しかし、自分の親友がこんな酷いことをするはずがない、と、信じがたい気持ちの方が強かったので、黙ってしまったのだった。
すると、話す気力もない位弱りきった声で、乙夏が「彼女」について口を開いた。
「藤守…マリア、とか言った…あいつ…。咲夜に似ていたけど…、別人だった…。でも、俺には…本当にそうなのかどうか、よく分からない…」
むしろ、分かりたくない、という気持ちの方が強くて、最後の方は口ごもった。しかしそれを聞いたサタンが、
「まずは、彼女を捜しましょう。真実かどうかは、それから知ればいいことです」
と、乙夏と七月を交互に見て言う。

『じゃぁ、こっちでも出来る限りのサポートはするから、行ってきてくれるかなぁ?』

「了解です。では、行きましょう、七月」
「何でもいいが…早く何とかしてくれ…」
乙夏は、もはやお前等しか頼れる人はいない…と言わんばかりの、か細い声で、二人に懇願する。
「分かったわよ。大人しく待ってなさい」

『じゃ、頼んだよ~』

「行ってきますね」
七月とサタンは、急ぎ足で倉庫を出る。やがて、二人の足音は、夜の静寂に吸い込まれていった。その足音すら遠くに聞こえるほど、乙夏の意識は薄れていた。そんな混濁の中で、思い出すのは、「咲夜に似た女」のこと。
あれは、「天使の顔をした悪魔」だった。もっとも、天使か悪魔なんて、もう乙夏にはどうでもいいことだった。自分が何をしているのか…という事実の認識さえも、どうでもよくなっていた。
考えを巡らせる気力も無くなり、ついに乙夏は意識を失った…。


一方、藤守マリアを捜しに出た七月とサタンだったが、五百メートルほど歩いたところで、突然七月がサタンに、
「ねぇ、さっきから思ってたんだけど、何か、〈サタン〉っての、呼びにくいのよね。だから、何か別の名前をあなたにつけてあげたいんだけど…」
「違う…呼び方ですか?」
「えぇ、そう」
「構わないですよ。呼びやすいように呼んで頂ければ」
半ば思い付きとも受け取れる七月の提案にも、サタンは快く応じる。
「そうねぇ…〈エンジェルナンバー0〉…ゼロ、だからー…、零〈リン〉、ってのはどう?」
「リン…ですか?」
「〈零(れい)〉の中国語読みなんだけどね」
不思議そうな顔をするサタンに、七月が解説を加えると、納得したように、
「分かりました」
と言って、サタン…もとい、〈リン〉は、何やら唱え始めた。すると、リンの体の中から、小さく唸るような機械音が鳴り、赤い瞳が更に赤く光った。
「名前認識コード、変更…。エンジェルタイプ0、エンジェルナンバー0〈サタン〉より、〈リン〉に変更…完了」
それを見て七月は、リンが、「人間ではない」ことを改めて思い知るのだった。
「大丈夫です、行きましょう」
リンに背中を押され、再び七月達は歩き出した。



一方、PPT社。
七月とリンを見送ったあずみは、お茶でも飲もうかなー、と、一旦メインルームからセカンドルームへ移動する。
部屋の隅にあるコーヒーメーカーに手をかけ、コーヒーを淹れようとすると。
「いいんですかね?勝手にあんなことして」
「わあっ!!!」
突然背後から声がして、あずみは持っていたコーヒーカップを落としそうになる。
一通り驚き終わって、後ろを向くと。
「あら、天才少年君。いたの?」
「その呼び方はやめて下さいって、何度言ったら分かるんですか?」
声の主は、弱冠十六歳にして、PPT社に研究員として出入りしている、〈妙崎(みょうざき) 建(たつる)〉であった。
知能指数200を超え、将来は大学に「飛び級入学」か、はては外国の大学に入学か、などと騒がれている、所謂「天才少年」である。
しかし、本人はそういった世間の噂はお構いなしに、将来は「AI(人工知能)」の研究をしたいと考えている。現在は普通の高校に在籍しているが、遊びで作ったプログラムがたまたま新堂主任の目に留まり、研究員として、特別にPPT社に出入りを許可されている。
「いいじゃな~い、本当のことなんだから」
自分を「天才少年」と言われることに不満を漏らす建に、あずみはいつものように、のん気に答える。
「それより、いいんですかね?こんなこと新堂主任にばれたらただじゃ済みませんよ?」
「いや~、だからぁ、真がここに戻ってくる前に回収しちゃえば問題ないかな~、なんて思ってさぁ。ホラ、今は非常事態でしょ?とにかくこのゲームの主人公を自由にさせてやらないことには、意味がないっていうかぁ……」
「それはまぁ、そうですけどね」
この「DWゲーム」の主要プレイヤーである乙夏が、あの通り拘束されたままでは、ゲームが進行しないと考えたのだろう。あずみは、コーヒーをすすりながら、セカンドルームのモニターを見やる。
「彼女たちは、何を追っているんですか?」
この部屋に入った時には、すでに七月とリンが行動し始めたところだったので、その前までの流れを何も把握していなかった建は、あずみに問うた。
「乙夏=モードニスを拘束した奴を探してるんだよ。何でも、「マリア=藤守」とか言ったかなぁ。どうやら〈術〉の使い手らしくってぇ、彼女の「念」で拘束されてるんだよ」
「〈術〉ですか?そんなもの使える奴、このゲームの中にいましたか?」
「そぉなんだ。だから困ってるんだよ。彼女の登場自体、予想外だったしね」
七月とリンが動き始めてから、あずみも、藤守マリアを追跡しようと試みたのだが、何の手がかりも得られず、途方に暮れていたところだったのだ。
「予想もできないことが起こるのは今に始まったことじゃないけど、なんだか腑に落ちないんだよねぇ」
「うーん、どういうことなんですかねぇ」
やっぱりよく分からない、といった様子で、建までもが考え込む。



一方、七月とリンは。
ほうぼう捜し回ってみたものの、藤守マリアらしき人間の足跡は全く掴めなかった。
「…疲れた…。何で乙夏なんかのためにこんなに苦労しなくちゃいけないのよ?」
「大丈夫ですか?少し休みましょうか?」
ずっと歩き回っていたせいで、疲れて愚痴をこぼす七月に、リンが声をかける。
「ええ……有難う」
リンに促されて、近くの公園のベンチに座り込む。
「さて、これからどうしようねぇ」
「そうですね……目ぼしいところはほぼ廻りましたし…。でも、ここからそう遠くへは行っていないと思います」
「どうして?そんなことが分かるの?」
「…気配が、するんですよ。何となくなんですけどね。乙夏さんにかけられていた〈術〉と同じような…」
リンがここで休もうといったのは、その気配を何となく感じ取ったからではないか、と七月は気づく。
「でも、確かではないです。その〈気〉を辿っていけば辿り着けるのかもしれないですが……」
「なんだ、まだ確実ってわけじゃないのね」
期待のすぐ後は落胆、そんなケースを繰り返してばっかりだなぁ、と改めて七月は肩を落とす。
「ねーぇ、そっちで何か分かったこととかないのー?」
突然、七月がナビゲーターのあずみに向かって叫んだ。

「あっ、もしかして、うちらのこと!?」
のほほんとモニターを見ていたあずみは、自分が呼ばれていることにやっと気づき、メインルームに戻った。建も後についていく。

『ごめんねぇー。こっちでも色々捜してみたんだけど、まだ何も分からないんだよぉ』

メインルームから、あずみは七月達に応える。
「そうなの?そっちからは、捜すことってできな
いの?」

『この世界に入り込んだ人間っていうのは、大体こっちの〈探知センサー〉で探せるもんなんだけど、彼女の場合、乙夏のところに来てからの痕跡が、全く掴めないんだ』

「じゃぁ、捜しようがないじゃん!一体どうしろっていうのよ!?」
期待外れな回答に、七月はまたもやあずみに食ってかかる。困ったあずみは、

『そんなこと言われたってぇ…』

と頭を抱える。

「センサーに、引っかからないってことですか?」
あずみと七月のやりとりを聞いていた建は、ふと、そんな疑問を投げ掛ける。
「そういうことになるねぇ」

「とにかく地道に捜すしかないようですね」
落胆する七月に、リンは元気付けるように言うが、それが果てしもなく困難なことだと、リン自身も感じていた。全く手掛かりがないのでは、この広い神代町内を歩き回ったところで、結局は見つかりっこないだろう。

「故意に消された、ということはないですか?」
「!!」
建の言葉に、「もしかしたら」の可能性を賭けて、七月たちにこう言った。

『あのさぁ、七月ちゃ~ん。もしかしたら、彼女の足跡は何かの力で故意に消されてるかもしれないんだよ。それを調べてみるから、もう少しだけ、捜してみてくれるかなぁ?』

「じゃ、もしかしたらそっちで何か分かるかもってこと?」

『あまり期待はしない方がいいけどね~』

「分かりました。では、何かそちらの情報が入ったらお願いします。七月、行きましょう」
リンが七月の背中を押すと、七月は仕方なく歩き出す。

「あんなこと言って、本当に大丈夫なんですか?」
いささか無責任そうなあずみの発言に、建は怪訝そうに聞くが。
「でも、ヒントをくれたのは君だよ?ここはゲームの中だからね。誰かが「故意に」自分の足跡を消すことなんて、難しくないと思う」
一応このゲームの基礎知識を新堂から聞いていたあずみは、この中で起こっていることが、「現実」でありまた「仮想」世界であること位は、わきまえているつもりだった。
「〈誰か〉が故意に足跡を消したということは…見つかるとまずいから、とか、この世界とは違うものが入り込んだから、ここのセンサーに引っ掛からないとか…。色々考えられますよね」
建が色々と推量を働かせる。
「見つかるとまずいところに、何でわざわざ入り込むのさ?!もしそうだとしたら、不法侵入だよ!?」
「…ハッキング、ってことですかね」
「…ハッキング!?」
その言葉に、あずみははっとした。ついさっき、「藤守ミサヲ」が、このDW世界にハッキングして侵入している、という情報を、自ら新堂や東城に報告したばかりだった。
もしかして、もしかすると…「藤守マリア」は、「藤守ミサヲ」にナビゲートされ、この世界に入り込んだ、という仮定が出来る。
「そういうことだったのか…」
あずみは表情を曇らせる。そこへ建が、
「そうだとすれば、ハッキング先を追跡すれば、侵入者は見つかるはずですね。やってみますか?」
と、当たり前の提案をする。
「…そ~だねぇ~…やってみようかぁ~…」
あまり乗り気でないあずみと、プログラムを見られる、という期待でわくわくしている建が、コンソールの前の椅子に座り、数々のモニターとキーボードに向かった。
「はぁぁ~膨大な量だねこりゃ~」
やってみよう、とは言ったものの、見ただけでその意気込みが挫けそうな、あずみであった。



「あ…あれ…」
神代町の繁華街に差しかかったとき。七月が、遠くに「見覚えのあるような」人影を見つけた。
「さく…や…?」
自分の大親友、「八百威咲夜」に似た影を、偶然発見したのだった。
「まさか…」
自分の目の前で惨い姿を晒されていた人間と同じ人間が、そこにいる、というのは、全く信じがたい事実だった。
「…乙夏が言ってた…咲夜に似た女だと…」
動揺して、言葉が上手く繋がらない。七月は、半ば混乱したまま、
「リン…あの女を…追って…」
と、12~3m程離れた女性を指さした。
「分かりました。七月は、後からついて来て下さい。私が先に行きます」
とだけ言ってリンは、その場所から「目に見えない速さ」で彼女の近くまで移動した。
「すご…」
一瞬で目の前から消えたリンを、呆気に取られながら見送り、次にリンの姿を確認出来た地点まで、自分も移動することにした。



一方、膨大な量のプログラム画面を前に、あずみはほとんど匙を投げかけていた。
「こんなのどうやって解析しろっていうの~!?」
「通常のプログラムと違う箇所を探し出せばいいんですよ」
「それは分かってるけどぉ~!なんでこんなに難解なのさってことだよぉ~!!」
建は楽しそうに、沢山のプログラム画面を次々と追っている。
そして。
「…ここ、変ですね」
「?どこどこ?」
建がふと、あるプログラムの画面をあずみに見せる。
「このコンピューターでは認識されないパターンが入り混じってるんですよ。誰かに変えられたような…」
「…あ…本当だ…こんなの、見たことない」
そこには、見たこともないような言語パターンが巧妙に隠されていたのだった。
「こんなことが出来る人間なんて、そうそういないですよね」
「でも、あの人なら、出来るはずだよ…」
元PPT社「技術開発部三課」に所属していた、藤守ミサヲなら…
そうは思っても、確証がまだない。もし本当に「藤守マリアが、ミサヲにナビゲートされている」ならば、その証拠を、新堂や東城に見せる必要があるからだ。
「もう少し調べてみないとね。たっくん、付き合う気、ある?」
「今度はその呼び方ですか?いい加減にして下さいよ。…まぁ、付き合いますよ」
「ありがとぉ~!」
自分を“たっくん”と呼ばれ、少々気分を損ねたようだったが、建は、もう少しだけあずみに協力してやろうと思っていた。



藤守マリア、らしき影を見つけたリンは、そろそろと接近する。
一方のマリアも、何者かの気配を感じ取り、振り向く。
「…見つけましたよ」
近くにいる七月に、リンは小声で教える。
「あれ…やっぱり…」
乙夏が、咲夜に似た女だ、と言っていた意味がやっと分かった。目の前にいる女性が、咲夜に「似た」というより、咲夜の姿「そのもの」だったのだ。
「間違いないですね。乙夏さんにかけられた〈術〉の匂いがします」
リンがそう言い終わるか終わらないかのうちに。七月は、藤守マリアに近づき、
「ちょっと。あんたなんでしょ?乙夏を縛り付けた上、私にあんなことしてくれたのは」
と、ケンカ腰に言い放つ。
「あら、七月ちゃん」
そんな七月を気にも留めず、藤守マリアは、楽しそうに七月とリンの方を視る。
「乙夏を放してやりなさい!いくら何でも、あれは可哀想でしょう?」
「さぁ。それにしても、よく私を探し当てられたわね。賞賛に値するわ」
「そりゃぁもう大変だったわよ!」
七月にとって、自分の親友に似た人間に、そこまで酷い言葉を浴びせるというのも、いささか違和感があったものの、今目の前に居る人間は、「咲夜」とは別の人間だ、と割り切るしかなかった。
「私を捕まえられたらね。もっとも、“普通の人間”じゃ無理でしょうけど」
「何ですってぇ!?」
すっかりからかわれた形になった七月は、逆上して藤守マリアに掴みかからんという勢いで彼女に近づいた。
「人にあんなことしといて、お詫びの言葉もないなんて、随分な話よね」
「あぁ、あれね。ちょーっと画(え)的に面白かったから、いたずらしてみたのよ。それにあなた可愛いんだもん」
藤守マリアは全く悪びれる様子もなく、楽しそうに七月に言いのける。それを見てますますムキになる七月を、おちょくらんばかりの口調で。
こいつ、自分の親友だった咲夜に、似ても似つかない性格をしている、と七月は思った。彼女は、やはり「藤守マリア」という全く別の人間だと、自分の中で確定した。
「乙夏を放しなさい!」
「嫌って言ったら?」
「力ずくで引っ張っていく」
「出来るのかしら?」
「私には出来ないけど、この子になら出来るかもね」
と言って七月は後方にいるリンの方を振り返る。
藤守マリアは、尖った耳に赤い瞳と赤い髪、という、一見して“人間”ではない姿のリンを一瞥する。
「ふぅん、この娘ねぇ。確かに」
軽く笑って、次の瞬間。
「じゃ、捕まえてごらんなさい!」
と高々と言って、その場から消えるように後ろへ跳んだ。
「ああっ!」
その人並みならぬ跳躍力に、一瞬驚く七月だったが、慌てて後を追おうとして、
「大丈夫です、七月。私が行きます」
リンに制止される。そして、彼女もまた、一瞬にしてその場から姿を消した。
「ほえー」
続けざまに起こった超人的な現象に、七月は暫く呆気に取られていたが。
藤守マリアを追うのはリンに任せよう、ということにして、
「ちょっとぉ!見つけたわよ!そっちはどうなのよ!?」
と、ナビのあずみに向かって叫ぶ。

「うわぁっと!」
いきなり大声で呼ばれて、びっくりしながらあずみは、七月達の映るモニターの方を注視する。

『あぁ~、見つけたのぉ!?』

本当に見つけられると思っていなかったあずみは、慌てて別のモニターを、自分の見える位置に移動する。そこには、自分が送り込んだリンの姿と、彼女が追っている目標「藤守マリア」の姿があった。
「この子だねぇ~?サタンの追っているのは」
すかさず目標の人物に焦点を当てて、追跡のための〈探知センサー〉を設定しようとする。
しかし、二人の動きがあまりに速すぎて、なかなか焦点が定まらない。リンの姿を追うモニターの端々で、辛うじて藤守マリアの姿を確認出来るだけで、彼女の動きが掴めないのだ。
「えぇ~!?どうしよ~!?速すぎて捕まえられないよぉ~」
「追いかけるのは〈サタン〉に任せておけばいいんです。彼女には、追跡カメラが搭載されていたはずですよ?」
「あっ!そうか~!」
建の一言で、あずみは〈サタン〉もといリンの体に搭載された追跡カメラの映像を映し出そうとして。
「…?…」
待てよ、とあることに気が付いた。
〈サタン〉は自分が開発したもので、この課にいる人間ですらもそのスペックは知らないはずなのに、何故〈部外者〉である建がそんなことを知ってい るのだろう…。疑問に思ったのだが、ここでは必要以上の話は〈機密漏洩〉につながる。そんなことを恐れて、あずみはそれ以上そのことについて口を開かな かった。
一方の建も、言ってしまってから、「しまった」と思っていた。これ以上この〈エンジェルタイプ〉について色々知っていることが分かられたら、自分が〈極秘事項〉の〈サタンプロジェクト〉に関わっていることも感づかれてしまう…。
しかし建の複雑そうな表情の横のあずみは、さっきのことなど気にも留めていないような風だった。この人がこんな人で助かった…と、密かに胸を撫で下ろす建であった。
「はい、追跡カメラの映像、出たよ~」
「どれどれ」
リンが必死で追っている藤守マリアの映像が出た。
「こいつかぁ~!この子の侵入先を辿ってみれば、何か分かるんじゃないかなぁ?」
「そうでしょうね、恐らく」


一方、マリアとリンは。
目にも止まらぬ速さで逃げるマリアを、リンが同等の速さで必死に追いかけている。スピードでは決して劣っていないはずなのに、マリアを捕まえることが出来ないのだ。
マリアは息ひとつ切らさずに、追いかけてくるリンをかわすように逃げる。逃げる、というより、まるで鬼ごっこを楽しんでいるかのようだった。
しかし、マリアは、乙夏が捕まっている倉庫から離れたところにリンを逃そうという魂胆があった。それでリンには気付かれないように遠くへ逃げていたのだった。



一方、取り残された格好となった七月は、
「ちょっとぉ!二人は今何処にいるのさぁ!」
と、ナビのあずみを呼び立てる。

『あ、あぁ~!?そうだったぁ、二人の現在位置確認だね?』

「そうですとも。あの人たちが何処にいるのか分からなければ乙夏のところに連れていきようがないでしょ」

『えーとぉ・・・』

あずみがDW内のマップ画面からリン達の現在位置を確認し、

『今ねぇ~、西の方に向かってるよ。正確な位置を今割り出すから、西の方に向かっててくれる~?』

「はいはい、分かりましたよ」
また当てもなく捜し回るのか、とうんざりしながらも、一生懸命マリアを追いかけてくれているリンのことを思い、とりあえず言われた方角へと歩き出すことにした。



DWの詳しい地図…とあずみが探しているうちに。
建が。
「そろそろヤマ場のようですよ」
と声をかける。
あずみが追跡カメラに目を遣ると。


「…そろそろ観念して下さい…。もう、逃げ場はありませんよ…」
マリアを行き止まりまで追い詰めたリンが、マリアにそう告げる。
「ここまでまぁ、〈あなたにしては〉、よく頑張ったわね」
半ば、いや殆ど嫌味としか聞こえない言葉を、リンに浴びせる。
しかし、言われる理由は分かっていた。リンは自分でも自覚している通り、マリアを追跡するために、自分の能力の限界いっぱいまで力を使ったの で、すでに身体や感覚その他の器官が軋みはじめていたのだった。体からは、きし、きしと機械音が聞き取れるほどになっており、見た目も、煙が立ちのぼる 位、諸器官がショートしているようだった。
「確かに…でも、私は私の責務を果たすまで、こんなところで力尽きるわけにはいきませんから…」
「でも、その体じゃ私にとどめは刺せないわよ?」
「あなたを乙夏さんのところへ引っ張っていくまでは死んでも死にきれません」
リンは既に、自分の最期・・・“使用不能”になるときを覚っているようだった。
「あら、そう。でも、この状況からどうしようっていうんでしょうね?」


『七月ちゃん!急いで!サタン…リンが彼女を追い詰めたんだよ!』
「どこよ!?」
『駅の近くの〈象岩パーキング〉だよ!』
「ならここからそう遠くないね!分かった、すぐ行く!」
七月は、リンが無事でいること、マリアを今度こそ捕まえて乙夏のところに引き摺っていってやろう、という思いで、息を切らしながらも目的地に向かってひたすら走った。



そして。
七月が目的地に着いた時には。
マリアの片腕を掴んだまま力尽きそうになっているリンと、それを冷めた表情で見ているマリアの姿があった。
「彼女…よく頑張ってくれたけど、そろそろ活動限界のようね」
体の至るところから、機械がショートするような音と、白い煙を上げているリンの姿を、七月はもう、直視することが出来なかった。
「七月…私の責務は果たしました。彼女を、乙夏さんのところへ連れて行って下さい」
「分かった…有難う…有難うね、リン」
涙目になりながら、リンをマリアから引き離し、替わりに自分がマリアの腕を思いきり掴んだ。
「さぁ、大人しく私と一緒に来てもらいましょうか」
七月の厳しい表情と、自分の手を掴む強さに、マリアは驚いたような顔をして、黙ってしまった。
「七月…名前…つけてくれて有難う…」
「リン、喋らないで…大丈夫だから!…ねぇ、もういいでしょう!?リンを、回収してあげて!このままじゃ可哀想よ!」


『………』

リンの傷ましい姿を見たあずみ達も、言葉が出なかった。

『分かった、回収するよ』

小さくそれだけ言って、あずみはキーボードに向かい、何やら打ち込みだした…のだが。

突然、大きな警告音とともに、画面が赤く点滅しはじめた。
「な、何!?」
〈システムエラーです。このプログラムは、不正なものとしてリジェクトされました〉
無機質な音声が大音響で流れる。
「や、やばいよ~~!!これじゃ真たちにばれちゃうよ~!!たっく~ん、どうしよ~!?」
「…自分で撒いた種じゃないですか」
慌てうろたえるあずみに、しれっとして答える建。
「おそらく、回収不能ってことでしょうね」


慌てふためくあずみに、さらに追い討ちをかけるように、不幸は続く。
ナビゲーションルームの異常に気付いた新堂が、
「何事だ!?」
と駆けつけてきてしまったのだ。
「………」
何て言い訳しよう……と、あずみはクビ覚悟で新堂の前に立つのだった。


「リン…」
〈回収不能〉となってしまったリンは、ついに力尽き、瞳の赤い光すら失った。
体の全ての機能が停止し、ただの〈人形〉と化したリンのボディはその場に崩れ落ちる。
涙をぼろぼろ流しながら、リンの〈最期〉を看取った七月は、それ以上何も言わず、藤守マリアを引っ張って、乙夏のいる倉庫へと歩き出した。マリアは、険しい表情を崩さない七月に、これ以上抵抗は出来ないな、と思ったのか、七月に引っ張られるままに歩き出す。
気が付くと、東の空がうっすらと明るみはじめていた。
また、〈不安な一日〉が、幕を開ける…。

(第六話『夜明け前』了)

 

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【Real-Side】第五話『未だ見ぬ災厄の降臨』

  記録者 御名神あずみ


「早く時間が…」
彼女は、ずっとこの暗い場所にいて時が来るのを待っている。
精神体となり、体と意識を切り離し待つことが彼女の精一杯だった。
今は、ただひたすら〈待つ〉ことしか彼女にはできないのだ。
遠くから足音が響いてきて、彼女は精神を深い底へと沈めた。足音の相手に、自分が目覚めていることを悟られないために。


☆   ★   ☆


「ちょっと乙夏!」
『ねぇ、考えた事ある?
今はさ、あたしがあたしだよって意識あるじゃない?
例えば、ん~…生まれ変わり、つまり〈輪廻転生〉が実際あるんだとしたら…
また別な人間になっても、あたしだって思うのかな?自分の事…』
『あたしは物事に執着しないの。だって、失った時に悲しいもの…』
その頃乙夏は、長い長い夢を見ていた。咲夜の夢を見ていた。
「乙夏…乙夏…乙夏!!」
遠くから声がして徐々に大きくなっているなぁとは頭の片隅で感じていた。
「うるせぇな、今忙しいんだよ俺は」
無意識にそんな言葉が口を出る。今は夢の中でしか会うことのできない咲夜の姿に、乙夏は目を覚ましたくなかった。もう少しだけ、咲夜を見ていたかった。
が…声の主は、そうさせてくれないようだ。
「あんた、あたしに何をしようとしてたわけ?」
顔を上げると七月がひきつった表情をしている。
「ばーか。この状況で俺がなにかできるかよ。」
芋虫状態の乙夏には手も足も出ない。
七月のほうは、手足を縛られているわけではなかったので、少し頭が痛いという程度で体の自由は利く。
七月が目を覚ましたということは、逃げることが可能なわけである。
「もう、お嫁に行けない」
七月は、ぶつぶつ言いながらはだけていた制服を直すと、乙夏の両手両足の自由を奪っている物に手をかけようとする。
以外に七月は冷静だ。人間動揺しすぎると、このように逆に冷静になれたりもするが…
「うっ…」
一瞬ばちっという音がして、七月は慌てて手を離した。
「乙夏…この紐何?触れないよ」
顔を近づけてよくみると、何か文字が紐に刻まれていることに気がつく。
「かんべんしてくれよ…
痛いし、殴られるし、縛られるし、挙句には紐がほどけないのかよ…俺って不幸…」
乙夏は力なく、うなだれる。

『もしもぉ~し』

頭の中に響いてくる声に、ようやく乙夏は気がつく。
「なんだ?」

『ボクの名前は、御名神あずみ。
よかったぁ~!
ようやく気がついてくれたね~ボクに~』

「あんたの声に気がついたところで、この状況じゃどうしようもねぇよ」
どうにもならない自分の状況に苛立ち、思わずあずみに八つ当たりしてしまう。
普段の乙夏ならば、絶対にしない行為だ。

『そのロ~プ~
多分ねぇ~縛った本人の念が消えないと、ほどけないよぉ~』

「信じたくないけど、咲夜だった…咲夜だったんだよ。
生きてたんだ。
あの声、あの姿、間違えるはずなんてない…
咲夜…」
意識がなくなる前に言葉を交わした相手の顔が、脳裏に蘇る。
「咲夜なわけない!
咲夜が乙夏に、あたしにこんなことするわけないっ!
何かあったんだよ、咲夜生きてるんだよ!」
七月は乙夏を睨み付ける。
目の前に叩きつけられた咲夜の死と、自分達とは敵対しているかもしれない咲夜の存在に七月は、真実を確かめる術がないことを強く認識する。

『そうだねぇ~七月ちゃん。
乙夏君をほどいてあげるには~、その縛った子のぉ~念が必要なんだぁ~
彼女の後を追ってくれる~?』
「でも乙夏がこの状態じゃ」
「俺は大丈夫。おまえを一人で行かせることのほうが心配だよ」
乙夏は七月をじっと見る。
「乙夏…」
「いや、ほら、おまえを野放しにしたら皆様にご迷惑がかかるだろ。
そーゆーことだ」
慌てて七月から目を逸らすと、いつものように憎まれ口を叩く。

『大丈夫~
本当はこ~ゆ~事しちゃいけないと思うんだけど~
多分バレたらボク、この会社クビになる気がするけどぉ~
ボクの子供をそっちに送るからぁ~
その子と一緒に七月ちゃんは~しばらく行動してくれる~?
身の安全だけは保障するよぉ~』

そう言ったのと同時に、空間に歪みができる。
光の中から一人の少女が出てくる。

『その子は〈サタン〉。エンジェルタイプ0。エンジェルナンバー0。
初めて感情を持ち行動するタイプじゃないかなぁ~』

「エンジェル?」
乙夏と七月は、あずみに尋ねる。
「まぁ、深くは聞かないでくれる~
企業秘密だからねぇ~」
あずみは、真にバレたら間違いなくクビかな~と心に思う。
「よろしく、七月」
サタンは、にっこりと笑って七月に握手を求めた。
サタンの顔の特徴として、一際目立つのが赤い瞳である。髪の色も赤で、腰までのストレートだ。
「よろしく、サタン」
これから、とんでもない出来事が七月とサタンに起こることを、今この場にいるメンバーはまだ知らない。
サタンを介入させたことが、後々重大な鍵を握っていることになる。
〈サタンプロジェクト〉
あずみは、社内でプロジェクトが進んでいる事など知らない。
乙夏と七月は、咲夜が生きているかもしれないという嬉しさで胸が一杯で、先程の不安など、すでに忘れてしまっていた。
ただ、一度死んで、冥界の食べ物を一度口にしてしまったら、この世には戻って来れない…そんな話を遠い昔誰かに聞いたなと、乙夏は心の中でふと思うのだった。

(第五話『未だ見ぬ災厄の降臨』了)

 

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【Real-Side】第四話『あまねく悪魔の住まう城』

  記録 御名神(みなかみ) あずみ


「もう!なんなのよ、あの〈乙夏〉ってコはっ!」
ディスプレイに向かってヒステリックな声を上げたのは、現在〈房森陽洸〉のナビゲーターを務める倉本奈那美であった。しかし、現在の乙夏=モードニスのナビゲーターを務めるのは東城神詞であり、彼女に割り込まれたカタチとなった東城は完全に頭に血が上っていた。
「ふざけるな!
今のナビは俺だ!
勝手に他人の被験者にアクセスするんじゃねぇ!」
コンソールに両手を叩きつけるように立ち上がると、東城は円卓の対岸にいる奈那美に中指を立てた。
「…………」
しかし奈那美は何事もなかったかのように、再び〈房森陽洸〉の動向に目を向けていた。
『このアマ…』
東城は立てていた中指を拳に変え、ぷるぷると震わせた。今にも彼女に殴りかからんと大きく振りかぶってみせるが、いかんせんディスプレイとコン ソールを並べて円卓を作り出しているため、彼女のデスクに手をとどかせるにはDWナビゲーションルームを半周しなければならなかった。
しかし、当然のように東城はそうしなかった。
彼女の反応はいつもの事だし、それにいちいち腹を立てるのも馬鹿らしい事だと分かっているのだ。だが、ストレスのはけ口が欲しいのも事実である。ひとまずDWシステム主任の新堂真に話題を振る事で気分転換を図った。
「おい、新堂よぉ~
藤守(ふじもり)の件はどうなった?」
東城が新堂の下についた条件である、藤守ミサヲ捜索の状況を訊ねるが、隣のデスクで別な〈誰か〉を見つめていた新堂は、一度だけ東城を見ると再びディスプレイに目を落とし、出入口の自動ドアを指さした。
正直なところ、新堂のこの反応にも苛立ちを感じた東城であったが、大人しく新堂に従いドアを向くと、あまりにもタイミング良くドアが開いた。
「真ぉ~!」
脳天気に新堂の名を呼んで入ってきたのは、〈御名神あずみ〉。DWシステム開発メンバーの一人であると同時に、新堂の幼なじみという曖昧な位置にいる女性である。
その彼女の登場に唖然とした東城に対し、敏感に反応したのは奈那美であった。
「御名神さん!
新堂主任はアナタの上司なのよ、せめて名字で呼ぶとか出来ないの!」
奈那美は明らかに苛立っていた。その原因は幼なじみとして新堂とあずみが共有の時間を持っている事にあるのだが、東城は気付いていても当の本人らは気付いていなかった。だからこんなにも軽く答えられるのだ。
「ごっめ~ん!
ボク、急いでいたから…」
それだけ言うと、あずみは新堂に駆け寄り一冊のファイルを手渡した。
「はい、藤守ミサヲの捜索結果がでたみたいよ。」
「ほんとか?
本当に分かったんだな!」
それに返事をしたのは新堂ではなく、横から東城が顔を近付け詰め寄ってきた。
あずみは眉をしかめ新堂に目で助けを求めたが、ファイルに目を通しており、それに気付かなかった。
「真ぉ~」
あずみがすがるような声になってようやく新堂は腰を上げ、東城の肩を叩いて休憩室へいこうと促した。
「あずみ、東城の…」
「おっけぇ~
乙夏君だよね~」
解放されたあずみは新堂の頼みを遮り、以心伝心よろしく東城のデスクに腰を下ろした。
『さ~て、まずは自己紹介かなぁ~』
余り楽観的ではない乙夏の状況を前に、あずみはひたすら脳天気だった。


☆   ★   ☆


「さて、まずは自己紹介かな。」
その言葉が闇よりこぼれ出たとき、RPGで鍛えた勘を働かせて遠回りで神代医科大学へ向かった事、それを今更ながら後悔した。いや、すでにタコ殴りにされた事で十分過ぎる程後悔はしているのだが……
『クソッ!
ゲームならもっと痛くなく作れよな!』
自分の置かれた状況もわきまえず、というか否認したいのが今の心情だろう。例えゲームと分かっていても、自分が惚れた女の死に顔を見るのは余りいい気分ではない。むしろ、生々しすぎて吐き気すらもよおす。だが、それすらさせてくれないのがこのゲームのストーリーらしい。

『あぁっ!先を越されたっ!』

乙夏の頭に直接誰かの言葉が流れ込む。乙夏は、三度ナビゲーターが変わった事に気付いたが、あえてそれを無視した。
「誰だよ、オマエ…」
芋虫よろしく両手両足を縛られこの上無く格好悪い姿の乙夏は、闇に紛れている女に向かって唯一束縛されていない口を出す。すると、はゆっくりと闇から顔を出し、転がる事しかできない乙夏の眼前にしゃがみ込んだ。
『オイ、ミニでしゃがむな!中が見えてる…』
正直、嬉しい誤算であった。しかし悲しいかな、芋虫乙夏はスカートの中を見る事は出来ても手を出す事は出来なかった。
「いつまで見ててもおあずけよ!」
今更ながら、しかし聞き覚えのある声と同時に平手が飛んで来ていた。平手が乙夏の顔面をとらえたインパクトの瞬間、女の指の間から彼女の右太股 の内側に蛇のような痣があるのを見つけてしまった。それは最近になってようやく知った、彼女の親も知らない共通の秘密、乙夏と彼女の秘密……
「咲夜?」
倉庫の窓から漏れる月明かりに妖しく照らし出されたのは、艶やかな笑みを見せる八百威咲夜の姿であった。
「元気……でもないかな?
乙夏=モードニス君?」
言うと咲夜は乙夏の腹部、しかも昨日刺された辺りを無造作に指でつついた。
「かっ…」
刺され、縫合、抜糸もまだ……
昨日の今日で傷が塞がるわけもなく、いつの間にか服に血が滲んでいた。
『うえ……
ナンか、腹がまた痛くなってきた…』
正確には病院でいつの間にか射たれた痛み止めが切れたうえに、傷が開いたのだ。ふらふら歩き回った挙げ句、タコ殴りにもあっている。普通、至極当然のことである。
「あらら…傷、開いちゃったね…」
言いながらも、咲夜は血の滲み出している位置を的確にとらえ、彼女の人差し指を朱に染めながらつつき続けた。
「さ、咲……やめろ……」
痛みに対する耐性は皆無に等しい乙夏であったが、〈目の前に咲夜がいる〉と言う本来あってはならない事象に救いのようなものを感じていた。
だが、それは次の一言で現実に立ち戻された。
「あ、自己紹介まだだったよね。
私は……〈藤守まりあ〉よ。
ちなみに君をボコボコにしたANGELUSは壊しといたわ。
まぁ、私が壊すまでもなく頭部が破損していたけど…」
しかし、乙夏は聞いていなかった。いや、聞けなかった。激痛によりすでに意識がとんでいたのだ。
「あれ?
しょうがないわね……せっかく七月ちゃんと相部屋にしてあげたのに……」
まりあが乙夏から脇に目を移すと、安らかな寝息を立てる湊七月の姿があった。彼女が乙夏と違う点と言えば怪我をしていない事と束縛されていない事か……
そんな二人を交互に見比べ、まりあは何事かを思いついたといわんばかりに手を叩き、乙夏の束縛を解いた。
「ん~制服を破っちゃ可愛そうかな?」
まりあは人差し指を唇に当てて呟き、幸か不幸か制服姿だった七月の、前とスカートをはだけさせた。お世辞にも大きいとは言えない胸を寄せているブラジャーはどうしようか、とまりあは悩んでみせたが、フロントホックに気付いた瞬間、迷わずホックをはずしていた。
小振りだが形のいい胸が露になり、まりあは乙夏に触らせてあげたいというささやかな衝動にかられ、七月の股を開かせるとその間に乙夏を配置し、七月の腹を枕にするようにうつ伏せに寝かせた。
「くすくす…あらあら乙夏君!Hなことをしちゃ駄目だぞ!」
いたずらっぽい笑みを浮かべ、まりあは倉庫から出た。
「さぁ、警察が来る前に逃げきれるかな~?」
七月に覆いかぶさる乙夏の図が月光に照らされた倉庫に、鍵のかかる冷たい金属音が木霊した。同時に、無意識に浸かってしまった乙夏の頭には、ナビゲーター御名神あずみの声が虚しく響いていた。

『ボクの名前は御名神あずみ~!
ねぇ?聞いてる~?も~し、もぉ~し?』

☆   ★   ☆


同時刻、神代医科大学の救急救命棟にあるICU。そこに一組の男女が寝かされていた。彼らはスパゲッティ症候群さながらに、何本ものチューブが点滴液や尿パックと体内を繋いでいた。
「房森陽洸……
それに、〈名無しの美少女A〉?
ふふ……洒落のつもりか?」
看護婦姿の者が一人、彼らのベッドの傍らに立っていた。その口調は女性というには姐御肌過ぎる感があり、可愛いと言える童顔な彼女には似つかわしくないものであった。
彼女は笑みを浮かべたまま、静かに機動音を立てている医療機器、しかも人工呼吸機の停止スイッチに手を伸ばそうとした。
「おい、さくら君!」
突然の声に彼女は無表情に戻り、振り向いて何者かを確かめた。
全身を独特な緑色をした滅菌衣で包み、滅菌キャップとマスクまでしている。声の質からして二〇代後半の男性であろう。彼女はそこまで判断すると、低いトーンで何でしょうか、とたずねた。
「おいおい、疲れてるのかい?
ICUに入るなら滅菌衣着用が義務ってものだろう。MRSAとかの院内感染で五月蝿いからね。バレたらマスコミの恰好の餌だ。
それでなくても医療ミスとか、新薬の人体実験疑惑とかで目を付けられてるんだから…」
まくしたてる男に、さくらと呼ばれた彼女は大人しく従ってみせたが、それも一瞬の事。着替えてこいと促され、広くない通路をすれ違うと同時に硬質化させた指で男の頚を狙って突き出した。しかし、彼女の指は男にとどかなかった。
「なにっ……」
逆に男に腕を突き上げられ、軌道が逸れた指は天を仰いだのだ。
同時に、男は両手で彼女の腹部に掌打を叩き込んだ!
「ぐふ……」
壁まで弾き飛ばされた彼女は激しい音を立てて床に突っ伏した。
「ふむ……
乙夏の姿のままじゃICUに入れないから、ナースに化けたってところかな?
だが、化けるならその対象についての一般常識はもっていた方がいいな。」
男は言うと、彼女を抱えICUの外に連れだしたのだった。
『さて、こいつを何処に捨てるかな……
いや、こいつもANGEL同様〈あれ〉が埋め込まれているとしたら、抜き取っていた方がいいのかな?
念のために……』
男は空いている手でポケットに手を入れると、昨日要石で手にいれた二個の水晶球を取りだした。
『所詮複製、前後不覚に息の根を止めるなど……』
「無粋……だな。」
男は二個の水晶球を握り砕いた。それが光となって床に落ちたとき、男とナースさくらの姿をしたそれは忽然と消え去った。
そうして意識の無い房森とQZL‐BMWLは、敵が現れた事にすら気付かぬまま、ひとまずの危険を回避したのだった。


☆   ★   ☆


現実世界のDWナビゲーションルーム、その中にある休憩室では、新堂が東城に〈藤守ミサヲ〉の捜索報告書の内容を語っていた。
「単刀直入に言うと……彼女は生きている。
しかも、どこからかDWシステムにハッキングし、DWゲーム内の人物の誰かをナビゲーションしている節がある。」
それは東城に大きな衝撃を与えた。ミサヲが余りにも近くにいたこともそうだが、自分に何も言わず去った理由がDWシステムにある事を悟ったからだ。
「新堂……
俺達、何をやってるんだ?
ミサヲがハッキングしてまで何かをしなけりゃならない事なのか?
新堂……?」
それに新堂は言葉少なに呟いただけだった。
「もう少しだけ、付き合ってほしい……
ここに棲む〈悪魔〉の首に〈俺達の剣〉がとどくその刻まで……」
言った新堂は立ち上がり、ポケットから取りだした写真を見つめながら休憩室を後にしたのだった……

(第四話『あまねく悪魔の住まう城』了)

 

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【Real-Side】第三話『危険な狂戦士』

  記録者 倉本(くらもと) 奈那美(ななみ)


「さて、そろそろ行きますか…奈那美さん」
「新堂さん、お聞きしたいことが」
首を傾げる男性…彼の名は、新堂 真。
「?」
「このDWを創ろうと思った理由は………?」
その問いに新堂は少し戸惑ってしまった。自分でも、何故これを創ろうとしたのか、このことを思いついたのはなぜか…謎が多い…その疑問を解決する手立てはないものか…
「…考えておきます。準備はいいですか?」
「はい」
彼女の今の名は〈倉本 奈那美〉。今の名、と言うのは、彼女には前世が有り、しかもその記憶が有るとでも言っておこうか…
新堂と彼女の馴れ初めを知るものは誰一人居ないのが不思議である。


☆   ★   ☆


神代病院…
駐車場に一台の車が入ってきた。
「ここか?神代病院って…」
彼は取り敢えず、正面玄関から入っていく事にした。

院内に入った途端、彼は徒ならぬ悪寒を感じた。彼は元来、病院が嫌いではあったが、そんなものではない、何か、途轍もない秘密を抱えていそうな、彼は恐ろしくなった。其も同様、ただの恐ろしさではない、
「こいつは…!」
彼は少々躊躇しつつも、ナースセンター窓口に足を踏みいれた。
「あの~、すいませ~ん?」
中から出てきたのは、ナースとは完全にかけ離れた-と言うか、出てきたのは女性ではなく、男性-人物…
「?」
「何か…」
「あ、あの、〈乙夏=モードニス〉さんの…!部屋…!」
その男性は彼を睨むと、ナースセンター内に入っていった。すると、中から女性の呻き声が聞こえてきた。
「おい、何やってん…!」
彼がナースセンターに入っていくと、彼はおもいっきり激怒&驚愕した!
長身の男性がナースの首を掴んで何かを問いかけていた。ナースには無数の傷が残っていた。おそらく、この長身の男がやったものであろう…。
「乙夏=モードニスノ部屋を言え」
ナースは何も答えなかった。と言うより、答えることが出来なかった。声帯を潰され、腹部からは臓物が幾つも出ていたのだから…まあ当然であろう…
そんなナースを長身の男は、
「…もう死んだか…」
彼は激昂した!
「てめー!人の命を…!」
だが男は何か答える様でもなく、彼のほうを睨んだ。
彼は寒気を感じ、その場から離れようとしたが、いきなり首筋を男の左手が鷲掴みにした!
「かはっ!!!!」
彼は抵抗を試みたが、其は全く無謀と言うものだった。そのうち、男は右手を彼の喉仏に伸ばしてきた!
喉仏に圧力がかかってきた…
「くっ!!!っの野郎!」
彼は隠し持っていた銃を男に突きつけた。その数秒後、男が倒れ込むのと彼が倒れ込むのが同時だった…
「ぐはっ!」
と彼が尻を摩っていると、そこに聞き覚えの有る声が…!
「あれ?陽洸(ひこう)じゃん」
彼は咳き込みながら、
「ゲホッ!クソ!、何なんだ!こいつは!」
「ANGEL」
「?」
彼の名は、〈房森(ふさもり) 陽洸(ひこう)〉。彼は、乙夏の元クラスメイトである。
彼は乙夏に聞いた。
「…ANGEL?ANGELって?」
「まあ、この世界の敵ってとこかな…」
乙夏は其だけ言うと、陽洸をじっと睨んでいた。その眼には何か違うものが有った。
「……乙夏?」
「似ている…」
「?」
「お前…咲夜に似てる…」
「咲夜って、お前の彼女のか?似てるかぁ?」
「御免…今の俺…もうろくしてんだろうな…誰でも咲夜に見える…一番人間味の感じられないお前でさえも…」
其を聞くと…
「貴様ーーー♪」
彼らは笑い始めた。其は十数分に及んだ。
そして十数分後…
陽洸は乙夏に聞いた。
「なあ、咲夜が死んだって本当か?」
彼は無言で頷いた。
「そうか」
陽洸は帰ろうとしていた。そのついでっぽく…
「乙夏」
「?」
「この病院から早く出てった方が良いぞ。ここはどうも人間にはあわねえや」
「そうか、そんじゃ、荷造りすっか」
そういうと、二人は別れた。

駐車場…
彼は車のそばで煙草を吸っていたが、車の窓を叩く音が聞こえると、自動車のドアを開けた。車に乗っていたのは、〈QZL‐BMWL〉。陽洸は車に乗り込んだ。
「遅い」
「悪い」
陽洸がエンジンをかけようとすると、其を脇の少女が遮った。
「?」
「こっちを向いて」
彼が言われた通りにすると、QZLは陽洸の腕に手を回し、顎を少し上げると、彼女と陽洸の顔の間は数センチ有るか無いかまでに近づいた。其でも二人は躊躇することはなかった。かえって、とても自然な顔をしていた。
「私が何をしたいか、分かる?」
「大体は」
「だったら、其に答えてよ」
陽洸は彼女の手を掴み、逆に彼女の顎を少しあげ、自分の唇に彼女の唇を重ねた。其は約、数十秒に及んだ…。

そして…
陽洸の乗った自動車はもう既に病院の敷地を出ていた。
その十数分後、乙夏も病院を後にしていた。
神代高の前の道路…
ここに一人…正確に言えば、〈一体〉だろうか…の生命体が腰を下ろしていた。彼は何かを待っているようであった…其が何かは、その数秒後に分かる…
彼は何かを呟いていた。
「ΣΩξφЮ1…」
其が何かは誰にも分からない…分かるのは、其を呟いている本人だけであろう…
そして…そこに一台の車が走ってきた。その車に乗っていたのは二人…
房森 陽洸とQZL‐BMWL…
座っていた生命体はいきなり飛び出した!
『!』
陽洸はおもいっきりハンドルを切った!しかし、車は確実にガードレールにぶつかると言うところまで来ていた。「危ない!」と感じたとき、二人を守った生命体が…
「?」
陽洸は車を下りた。生命体はQZL‐BMWLを睨んでいた。
陽洸が其に気付いたときはもう生命体の槍がQZL‐BMWLの腹部を貫いていた。
「うっ!!!」
彼女は力なくその場に倒れた。
「おい!QZL!しっかりしろ!」
陽洸が必死に呼びかけていたが、QZLは腹部を押さえたまま何も言わなかった…と言うより、言えなかった、と言ったほうが適当であろうか…。
必死で呼びかけている陽洸に生命体が近づいてきた…!彼は手を伸ばした。その手は陽洸の首筋を捕えた。
「くっ!!!」
陽洸は苦しみながら銃に手を伸ばした。だがその銃は生命体によって使い物にならない鉄の塊に姿を変えられてしまった。
彼の意識が薄れていく時、彼の脳裏に何ものかの声がした。

『しっかりしなさいよ陽洸君!』

『だっ、誰だ!』

『私は倉本奈那美、このゲームのナビゲーターなの!とにかくしっかりしなさいよ!QZLさんが危いっしょ!』

『でも、俺は…もう…』

『自惚れてんじゃ無いわよ!この意気地無し!とっととQZLさんを助けたらどうなの!』

『だ、だって…』

『だってじゃない!自分の命よりその娘の命を心配したらどうなの!あんたの命より彼女の命のほうが大事なの!!』

『そこまで言うか!畜生!殺ってやらあ!』
二人の頭の中での会話が済むと、なぜか突然、首にかかっていた圧力が消えていった…。
陽洸は眼を開けた!
「うらっ!!」
気合いと共に陽洸は生命体の顔面をおもいっきり蹴り飛ばした!しかし、いかにも鉄を叩いた様な嫌な音がしたかと思うと、生命体は彼を学校の塀に向かって投げつけた!
「!!」
彼は其から、立ち上がることが出来なかった。呼吸が思うように出来ない…
「…はっ!…くは…こ…」
彼は動けないばかりか、呼吸すら儘ならない状態まで来ていた。喉がヒュウヒュウ鳴っているのが自分にも感じ取ることが出来た。 そんな中、生命体はQZLに近づいていった。陽洸は其を見ると、
「止め…ろ…QZL……ら……なれろ!」
彼はよろめきながら生命体に近づき、生命体にしがみついた。
「止めろ」
だが生命体は陽洸には眼も繰れず、QZLの首に手を伸ばした。
「…めろ……やめてく…」
陽洸が哀願したにもかかわらず、生命体はQZLの首を絞め始めた。
「…めろ…止めろっ言ってんだろうがよ!」
陽洸は自分の骨が唸りを上げているのを感じながら生命体の腰に腕を回した。生命体が振り払おうとしたその刹那!
「!」
陽洸が苦し紛れに見様見真似でやったバックドロップが生命体の頭を完全に砕いた!
そして二人は共に果てた。
その時、陽洸は或ることに気付いた。
…QZL…
彼女のほうを見た。彼女は寸分も動かずに大破した車の脇に倒れていた。
「QZL…!」
彼はQZLに近寄り、必死に呼びかけた。しかし、QZLは眼を開けなかった。仕方なく陽洸は最寄りの医大へ行くことにした。車を破壊されていたので、QZLを背負ってだが…

要石…ここに乙夏の姿が有った。
『咲夜…』
彼は暫しその場に立ち尽くしていた。咲夜の笑顔が彼の脳裏を過った。
十数分その場に立っていた乙夏は、その場をそそくさと後にした。その場を名残惜しそうに何度も振り返りながら…
『…乙夏君…』

『誰?』

『倉本奈那美です。このゲームの…ナビゲーターなんです…』

『ふ~ん…。で、用件は?』

『あの、陽洸君とQZLさんを助けてあげて。彼ら、今とても危険な状態なの、早くして、多分彼らは今、神代医科大学にいると思うから、急いで!』

『神代医科大学だな?よし、分かった、直ぐ行くことにしよう。』
乙夏は一路、神代医科大学に行くことにした。後ろに、いてはならないものがいることも知らずに…
その後ろにいた人物は乙夏に近づいた。そして業と彼にぶつかった。
「あ、すいません」
「いえ」
後ろにいた人物はそこから立ち去った。彼の右手には数本の髪の毛が有った。
彼は路地裏に入り込み、今〈採取〉した乙夏の〈DNA〉を体内に取り込んだ。
彼の頬の筋肉がだんだんと痙攣していったかと思うと、顔の形、背丈などがすべて乙夏に瓜二つになった。
その時、其を見ていた人物がいた。その人物があとず去ると、彼は下に落ちていた〈鳥の羽〉を体内に取り込んだ。たちまち鳥の姿へ……、あっと言う間の〈変身〉の瞬間を見ていた少年の前に来た。彼‐鳥に変身した‐の懐中から出てきた銀色のきっさきが彼の左胸を貫いた。
その後、彼はもう一度乙夏の姿になり、用意していたオートバイクに乗り込み、神代医科大学へ行くことにした。

乙夏は神代高前まで来ていた。ちょっと一服しようかと塀に寄りかかったとき、彼の後ろにいた人物が乙夏の頭を鈍器で殴打した。
「くっ!!」
彼は失神した。

神代医科大学…
ここの病室に陽洸とQZLの姿が有った。二人は隣り合ったベッドで寝ていた。彼がQZLを病院に運んだとき、陽洸の傷も凄いので、共に入院する羽目になってしまったのである。
二人は静かな寝息を立てながら寝ていた。
何処かの倉庫…
ここに、乙夏の姿が…
「うっ!…しっかし痛ってーなー!あのヤロ、しこたま殴りやがって!」
彼は両手両足の自由を奪われていた。
彼がふと前を見た時、そこには黒い影が…!

(第三話『危険な狂戦士』了)

 

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【Real-Side】第二話『泥人形』

  記録者 東城(とうじょう) 神詞(しんじ)


「…準備はいいかい、東城くん」
コンピュータを前に、背後の男に声をかける、眼鏡の男。名は新堂 真。
ディスプレイにはなにも表示されていない。黒いそこに、彼の顔が映るだけだ。
「ああ」
新堂の背後にいる男は、目線を下に向け、そのまま、言った。
「いっちょ、会ってくるぜ。
〈乙夏〉とかって奴に」
彼の名は〈東城 神詞〉。DWゲーム被験者・乙夏=モードニスのナビゲーターに選ばれた青年である。
電子機器やゲーム、アンドロイド等を扱う〈PPT社〉の、技術開発部に所属していたが、先日同社の新堂からDWゲームのナビゲーターに任命され、所属を移った。
ただし、条件付で。
『元技術開発部所属、藤守ミサヲの行方を突き止めること』
東城の恋人であった彼女は、二年前、突如として姿を消した。


☆   ★   ☆


「咲夜………」
乙夏と七月は、磔の咲夜に近付こうとしたが、すぐに例のロボットに牽制された。お前達もああなりたいか、とでも言うように。
周囲の人間はどうすることもできず、ただ目前の非現実的な現実を傍観していた。
乙夏は逆上して、ロボットの脚を蹴った。もちろん、無意味に等しい。それどころか、自分の脚を痛める結果となった。
「くそおっ……」
「…………!
乙夏、後ろ…」
七月の声が震えている。こんな彼女を見るのは、おそらく初めてであろう。
乙夏は七月の言う通り後ろを振り向いた。 そこには、要石の脇のロボットと同系の、ロボットを一体従えた乙夏を見据える男。
その冷たい眼に、乙夏は背筋が凍るように感じた。
だが、彼が驚くべき点は別にあったのだ。「甲斐造(かいぞう)…………?」
そう、そこに現われたのは、乙夏も七月もよく知っている男だった。一つ年上で、幼なじみの〈伊達(だて) 甲斐造(かいぞう)〉………。
彼がここにいること自体は、何の不思議もない。彼のバイト先は、駅前のレンタルビデオ店だし、それ以外の用事だって十分考えられる。
おかしいのは、彼に従えられたロボット、そして……見たこともない冷たい眼だった。「甲斐造……?」
様子がおかしいのは一目瞭然であった。
正直言って訳が分からない乙夏は、混乱の元三号(一号は磔の咲夜、二号は謎のロボット)である甲斐造の名をしきりに呼んだ。
この事態の不可解さは、乙夏のキャパシティをゆうに超えていた。
そんな乙夏を気にも止めず、甲斐造は彼らの方に近付いてきた。悠然と、玉座に向かう王のように。
乙夏の目前まで来た甲斐造は、唐突に乙夏の前に右腕を突きだし……
「がっ…………」
次の瞬間、乙夏の足は地面を離れていた。決して逞しい方ではない、むしろ華奢と言った方が正しいような甲斐造の右腕一本で首を絞めあげられていた。
女のように伸ばされた爪が、首筋に食い込んでいる。
息が、ほとんど出来なかった。
「おと…………!
やめて、やめてよ、甲斐造!」
七月の叫びとともに、どさっ、と地面に落ちる乙夏。尻餅をつき、激しく咳き込む。そんな乙夏の上体を支えながら、七月は甲斐造を睨んだ。非難と、畏怖と、両方の交じった眼で。
しかし甲斐造は、七月を見ることもせず、彼女達の背後の二体のロボットに向かって、言った。
「殺せ」
いつもよりもずっと下げられたトーンの声。怖いくらいに、無感情だった。
甲斐造はすぐにきびすを返し、去っていった。乙夏はその背中に何か言い掛けたが、まだ喉が使える状態には戻っていなかった。
なぜか、その時意識は現実から遠退いていて、彼は自分の身に降り掛かろうとしている危険にまったく気付いていなかった。
「乙夏!」
聞き飽きる程聞いた女の、自分を呼ぶ声が遠くなっていく。七月の声が……
「乙夏。
……おとか…。
おと………………………」
『馬鹿!
ぼさっとしてんじゃねーよ、てめえ!』
頭の中に直接響くような声とともに、彼の意識は途切れた。


☆   ★   ☆


目覚めたときは、ベッドの上だった。それも、見慣れた自分の部屋の景色はそこにはなかった。
そこは……〈神代病院〉だった。
「乙夏ぁ………………」
力の抜けた、安心しきったような涙声が耳に入ってくる。やがて、霞んでいた視界がはっきりとしてくると、そこにいるのが七月であることが分かってきた。
「よかった……」
しかし、乙夏には何故自分が病院のベッドに寝かされているのか分からない。
「…………俺………どーしたんだ?」
起き上がろうとしたが、左脇腹を激痛が突き抜けた。
「痛っっってえ……………」
「覚えてないの?
昨日のこと………」
「いや、全然…」
腹筋を動かすと、傷が痛むので、自然と言葉が少なくなった。
「咲夜のことは?」
「…………覚えてっけど…………」
まだ実感がない。磔にされた咲夜……その脇にたたずむロボット、まるで悪い夢を見ていた、という感じしかない。
それに、甲斐造………今までの彼ではない、冷淡な様子しか感じられない、あの男…。「なんで……腹、怪我してんだ?」
「…………刺されたのよ」
その言い方があまりにも唐突なので、乙夏は七月に順を追って説明するよう頼んだ。

真相はこうだ。
「乙夏。
ちょっと、乙夏!
後ろ………乙夏ーっ!」
甲斐造の背中を見続けて、放心していた乙夏の頭上から、ロボットの槍が襲おうとしていた。
七月の呼ぶ声にもまったく反応しない。そのまま放っておけば、頭のてっぺんから棒の生えた死体が一つ出来上がっていたことだろう。
しかし、槍が振り下ろされるかという刹那、七月は思いっきり乙夏の右腕を引っ張った。乙夏の頭部にすでに振り下ろされていた槍は、突然目標の位置が変わったことで、彼の左脇腹に突き刺さった。
それはそれで深い傷だったが、頭部を破壊されたらはっきり言って即死だ。それに比べれば、脇腹ぐらいどうってことはない。
だが、一回目標を外して諦めてくれる連中ではなかった。指令できる立場の者から「殺せ」と言われれば、それを全うするまで活動する。
絶体絶命とはこのことだ。
……にもかかわらず、乙夏の意識はない。
『脇腹ぐらいでなに気ぃ失ってんのよー!』
七月は、冷静になろうと必死だったが、彼女だってなんのことはない普通の女の子だ。こんな事態に冷静になれといっても、それは酷というものだろう。
槍は、今度は彼女に振り下ろされようとする。彼女はそれから逃げるために立ち上がろうとしたが、恐怖のためか、できなかった。 それでも、この ままでは殺される―生への執念というべき思いが、彼女を逃げさせた。四つん這いになって、逃げながらも冷静になろうと必死で………。
だが、冷静になって考えて、生き延びる考えが見つかるのか………。
逃げても、彼女はすぐに要石にぶつかり、移動を禁じられた。すぐ後ろにはロボットが迫っていた。
『もう、お仕舞だ』
諦めの言葉が、頭の中でぐるぐる回っていた。―その時だった。
ぎりっ…という音がして、ロボットの頭部が一八〇度回転していた。
「?」
男が、ロボットの頭部を掴んでいた。
「〈ANGEL(エンジェル)シリーズ〉の最下級か……」
ロボットは男の手を退け、身体も一八〇度回転させる事で男に身体ごと正面を向けた。
「止した方がいい。私は到底君達が勝てる相手ではない。分かっているだろう?」
妙に余裕のある言い方だ。嫌味ったらしい事この上ない。
男は電光石火で動いてロボットの胸部にある、奇妙な紋章入りの装甲を剥がしていた。 装甲の剥がされたそこに、直径三センチメートル程度の水晶球が埋め込まれていた。
「これが〈……………〉という訳だね」
ぶちっ…ぎっ…という耳障りな音のした時には、片方のロボットは使いものにならなくなっていた。男は、もう一体も同様にして、動けなくした。
男の手には球体が二つ、握られていた。
「怪我はありませんか?」
何も持っていない方の手を七月に差し伸べて、立たせてやると、すぐに男は立ち去っていった。
周囲にはいつの間にか―正確には甲斐造の登場した前後から―誰もいなくなっていたが、誰かの呼んだ警察のパトロールカーのサイレンが遠く響いていた。

「………凄く…不思議な人だったの」
その言葉で、七月は説明を閉じた。
「誰なんだろーな、その人」
「あっ…ごめん。
あんたんトコのおじさんとおばさんに、電話かけてくる。
さっきもかけたんだけど、いなかったみたいでさ…」
七月はそうして、部屋を出ていった。それからすぐ、奇妙なことが起こった。

『ったく…なんで避けなかったんだよ!
ボケ!』

「?」
頭の中に直接、人の声が響いたのだった。

『……そんなに驚くっつー事は…お前、そこがどこだか分かってねーな?』

「だっ…あんた誰だよ!」
謎の声に、つい言葉をかける。

『俺は東城 神詞、今回のお前のナビゲーターだ。
で、ここは〈DWゲーム〉の中。
お前は、そのテストプレーヤー。
今まで忘れてたってのかよ』

まくしたてるその口調は乱暴で、〈初対面〉とは思えない。正確には顔を合わせていないが………。
『そーだった…………。
俺は、ゲームの中に…………』
乙夏はやっと、その事実に気付いた。
『あのロボットや……咲夜のことも…ここがゲームの中だからなのか?』

『まあ、そーゆーことになる』

〈東城〉と名乗った口の悪いナビゲーターは、一通り文句を言い終えてすっきりしたのか割にあっさりとした口調で問いに答えた。

『昨日だって、「危ねーから避けろ」って言ったのに、何ボケてたんだよ?
腹で済んだからよかったけど、あの女がいなかったら、お前死んでるぞ?』

『………そーは言っても、ゲームん中だろ? 別に死んでも俺自身は平気じゃねーの?』
乙夏は気楽にそう言い、ベッドに横になった。東城は、

『ま、そーだけど』

と返した。反論はない。
それから、東城は話し掛けてこなかった。


☆   ★   ☆


「大丈夫かー?
乙夏ー」
突然、甲斐造が大声とともにドアを開けて入ってきた。通りすがりの看護婦の「静かにしてください!」という注意の声を遮ってドアを閉める。
「……かっ………………!」
乙夏はそれ以上、何も言えない。昨日思い切り自分の首を絞めた男が自分の前に笑顔で立っているのだ。そう、昨日会った時とは違う、〈いつもの〉甲斐造がいた。
「腹、刺されたってー?
どーした、ショックで声も出ねーか?」
んなわけねーな、と明るく笑う甲斐造に、乙夏はますます声が出ない。
『殺せ』
そう言い放った声の冷たさと、今の甲斐造……それは極端すぎた。
「何しに来たんだよ」
口から出てきたのは、そんな言葉だった。
「……………?
……何しに……って…見舞いだよ。
お前ん家に行ってもいねーし、七月んトコ行ったら、お前が謎のロボットに腹刺されたとか言われるし……」
「……お前がそーさせたんじゃねーか…」
「あ?
何言ってんだお前」
「そりゃこっちの台詞だ!
人の首思いっきり絞めあげといて、何のつもりだよ、帰れよ」
「………知らねーよ、何の事言ってんだよ! 心配してきてやったってのに……そーかよ、もーいい。
お前なんか知るか!」
甲斐造は、病室を出て、勢い良くドアを閉めて、廊下を走っていった。
乙夏の耳に、「静かに!」という注意の声が壁ごしに聞こえてきた。

甲斐造が走って病院を出ると、四つの人影が彼を待っていた。
「……大丈夫だったのか?
幼なじみは」
「知るか」
乙夏に対する憤りを剥出しにしたまま、彼はその四人と一緒に病院を後にした。
「それより、行こう!
ライブの曲の最終確認」
彼らは五人で〈LOUIS(ルイス)〉というロックバンドを結成している。今日、一二月二四日はクリスマスイヴ。今夜は彼らのクリスマスライブなのだ。
「カイ、どーしたんだよ」
「何でもねー!
そーいやさ、昨日駅前歩いてたらいきなり誰かに髪引っ張られてよお、そのまま何本か抜かれたんだよ、痛ってーのなんの!」
大声で言った。その横を、男が一人すれ違っていった。
その男の姿が、午後六時をまわった薄暗い路地裏で、少女に変わったのを見た者は、いなかった。


☆   ★   ☆


時刻は午後一〇時を回っていた。
病院内はとっくに消灯時間を過ぎている。 しかし乙夏は眠っていなかった。ゲームの中の話とはいえ、甲斐造の態度の差や、他の衝撃的な出来事………そして、咲夜の死。
色々なことがありすぎた。
個室である乙夏の部屋のドアが、見舞いにしては不自然なこの時間、突然開く。
「?」
訪問者は部屋の明かりを付け、乙夏の眼が慣れるのを待っていた。
蛍光灯に照らされた、常識はずれの訪問者の、その姿は―
「咲………夜………?」
昨日、謎のロボットによって磔にされていた、彼の彼女、八百威 咲夜だった。
『夢か……………?』
どうせ夢ならという気持ちと、もしかしてまだ生きているのかという僅かな期待が、彼に目の前の少女を抱き締めさせた。
そのまま、眼を閉じた。
彼は知らない。愛しい者の形をしたものが、彼の腕の中で別なものに変わっていたことを。それが彼にとって危険なことであるということも。


☆   ★   ☆


神代駅の南口近くに、〈PPT社〉という会社の本社がある。
そこにかつて存在していた課〈技術開発部三課〉。そこで造られた人造人間のテストタイプの失敗作が、社員を一人惨殺して、逃げていった。一二月二三日のことだ。
〈ゴーレム・テストタイプA-Rn〉…数体造られた人造人間の中で唯一、他に類を見ない異常すぎる能力を引き出していたため、失敗作と見做されたもの。
その能力とは、〈変身〉。人の身体の一部―髪の毛や血や肉、何でもいいのだが―を体内に取込むことによってその持ち主の姿になることができるのだ。
逃げたそれは、殺した社員の血液を取込んでその人の姿になり、社の門前を歩いていた少年の髪の毛を無理矢理採取して、その姿になった。向かった先は、〈要石〉だった。

そして翌日、一二月二四日。それは神代病院に侵入している。一人の少年を、その運命を玩ぶために…。
その少年の名は、〈乙夏=モードニス〉。

(第二話『泥人形』了)

 

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【Real-Side】第一話『目覚め』

 記録者 新堂(しんどう) 真(まこと)


『西暦一九九九年、長年話題となっていたノストラダムスの大予言が現実となると言われてきた年だ。しかし予言ははずれた。大小様々な災害は起こったが、恐怖の大王と言うには小さな出来事だった。
そして西暦二〇〇〇年一月五日、二〇〇〇年問題も何処吹く風と、恐怖の大王=大災害をノストラダムスの狂信者が人為的に起こそうとした。
だが、それはきっかけに過ぎない。
おそらく世界の大半の人間が心の何処かで信じた崩壊のイメージが集まり、もう一つの世界が形作ってしまったのだろう。
世界は二つに分岐した。
物理的な世界と、個の精神が影響を及ぼす世界に……
これから語られる物語は、新たに現れたもう一つの一千年なのだ。
そう、世界は今、ヒトの心の力で壊れようとしていた……』

〈ぱんでもにうむ・ぷれぜんつ〉と漫画の様な丸字で表示された後、ミレニアムと騒ぎ立てていた一九九九年から二〇〇〇年の映像が瞬間的に差し込まれる画面をバックに、このテロップが流れていた。
「ハハ……ありがちな設定……」
彼の第一声はそれだった。
彼の名は〈乙夏(おとか)=モードニス〉。冬休みの終わりと同時に一七歳になる予定の〈神代(かみしろ)高校〉の二年生だ。彼女にフラれ、幼なじみに文字通り引きずられて連れて来られたと言う経緯を持つ人物である。当然、高額のアルバイトとしか聞かされていない。
『まぁ、テスト用のストーリーだから我慢してくれ』
「どわっ!」
乙夏は声を上げ、大袈裟に驚く。
それもその筈、声は突然乙夏の頭の中に響いたのだ。
『そんなに驚くなよ……
俺は今回のナビゲーター、新堂 真だ』
そう、乙夏はすでに〈DWゲーム〉のテストプレーと言うアルバイトに投げ込まれていたのだった。
「あ、俺は……もとい!
私は乙夏=モードニス。今回採用された……」
何もない空間に向かい、しゃちほこばって自己紹介を始めた乙夏を新堂が遮った。
『そう、俺が採用した。
他にもいるけど、ゲームの中で味方として出会えればいいね。』
はぁ、と気の無い返事を返す乙夏を気にも止めずに、新堂は先を進めた。
『では、まずはこのDW(デジタルワールド)ゲームについて説明します』
突然事務的な口調になり、説明がはじまった。
『基本的に、この世界では何でも出来ます。
自らの意志の力が全てを可能にする世界……
そう、認識していて下されば結構です。
ただ、今回はテストプレーと言う事もあり、ストーリー的な物を用意しております。
それに沿ってゲームを満喫するもよし、ストーリーから全く離れて生活するもよし!
なんなら、彼女をつくって結婚してくれてもOKです。
あとは・・・・いいや、説明終わり。』
「ちょっと待て!〈いいや〉ってのは何だ!」
新堂の言葉にうんうん頷きながら説明を聞いていた乙夏だが、突然、しかも中途半端に説明が終わり抗議の声を上げる。
しかし、新堂は聞く耳を持たなかった。
『百聞は一見に如かず、百見は一行に如かず。
ゲームを始めりゃ分かる。
では、ゲームスタート!』
「ちょっと待て!俺は止めるぅ~!」
かくて、ゲームは始まった。


☆   ★   ☆


「俺は止めるぅ~!」
乙夏は、叫び声を上げると同時にベッドから転げ落ちた。
床がフローリングであるにも関わらず、音も無ければ身体に痛みも無かったもは、良く干されたふかふかの布団のおかげと言う事か。
寝ぼけ眼を擦りながら周囲を見回すと、散らかったテーブル、その奥にある漫画と教科書が乱雑に詰め込まれた本棚、本棚と壁に挟まれ斜めに置かれたTVとビデオデッキ他オーディオ機器、壁に掛けられた日めくりカレンダー、そこは紛れもなく自分の部屋であった。
「夢……か?」
床に転がった目覚まし時計を手に取り、『また無意識のうちに止めたのか……』などと思いながら時刻を見ると午前一一時をすでに回っていた。
「うっ……わぁぁぁぁぁぁっ!
完全に遅刻じゃねぇかぁぁぁ!」
弾かれる様に飛び起きた乙夏は、慌てて先日寝る前にめくっておいた日めくりカレンダーに目をやると、真っ赤な二三の文字が飛び込んできた。
そう、今日は一二月二三日木曜日、天皇誕生日で祝日だったのだ。
「は……はは、今日は休みじゃねぇか、大馬鹿ヤロ~が!」
焦った自分に腹立たしくも、休みで良かったと言う安堵感とが混在し、今は笑う他無かった。
しかし、その安堵感はあっさりと消し飛んだ。カレンダーに書かれた、いや、自分で書いた言葉を見つけた事で……
「ん……〈今日はデート〉?」
言葉を声にした瞬間、乙夏は凍り付いた。
固まって動けなくなった身体と同様、頭の中は〈今日はデート〉と言う言葉がぐるぐると回り、思考が停止していた。
「ノォォォォォォォォォォォォォォォッ!」
彼女との約束の時間は一一時。すでに遅刻といえる状況だ。
『まだ間に合う……か?』
一縷の望みに全てを懸け、乙夏は慌ただしく着替えを済ませるとがらんどうな家を飛び出した。両親が外国暮らしというのは何かと便利だが、こういう場合は別だと乙夏はしみじみ感じていた。だが、そんな事に想いを馳せている暇もないのだ。
「くそっ!
こんな事なら〈要石〉なんかで待ち合わせするんじゃなかった!」
翌日はクリスマス・イヴと言う事もあり、乙夏は彼女〈八百(やお)威(い) 咲夜(さくや)〉との待ち合わせに神代駅南口広場の待ち合わせスポットである〈要石〉を選んでいた。
いつもは乙夏宅の近くを流れる〈泣沢女(なさわめ)川〉を渡ったマンションから咲夜が迎えにきてくれたのだが、「今日くらい」などと口走って待ち合わせをしてしまった事を乙夏は今更ながら後悔していた。
「あぁぁぁぁ~!
このままじゃぁ夢が正夢にな……る?」
今時珍しく自転車に乗れないと言う特技のため、自分の足で走らざるを得ない乙夏は、なりふり構わず喚いていた。しかし、自分の言ったフレーズに足を止め、来た道を振り返っていた。
『何か……おかしい。
この道、見覚えがある……』
乙夏にとって、この町の風景はいつもと変わりがない。しかし、何かが違っていた。
既視感……
そんな言葉が乙夏の中に漠然と浮かんできた。
だが、乙夏は思いも言葉も打ち消した。
「んなワケねぇ~か!」
乙夏元来の真剣味の無い性格が、自分が感じた素直な、そして正確な感覚を殺していた。
そのため、乙夏が肝心な事を思い出すのはまだ後の事となる。

☆   ★   ☆


乙夏が駅の北口に着いたときには、すでに一一時一五分を廻っていた。
神代駅はさして大きな駅ではないが、大層な駅ビルの内部にあるため、二階の改札口に入るには北と南を繋いでいる、通称〈伊賦夜(いぶや)通り〉を抜けなくてはならなかった。
「ここを、抜ければ、要石、だ……」
息が完全に上がってしまい、肩で息をしながら上る階段は、乙夏に何百段にも感じさせていた。人通りの多い伊賦夜通りでありながら、誰一人として 乙夏を気に止める人がいないのは好運なのか、社会が不幸なのか。どちらにせよ、急ぐ乙夏にとっても他人を気にする余裕はなかった。
だが、急ぐときほど妙な奴に捕まるものだ。
女子高生がすれ違いざまに、走る乙夏の腕を掴み引き留めたのだ。
引き留めてきた彼女は、後ろで髪をまとめ、活動的な雰囲気を見せる。基調となる千歳茶に純白の襟と緋色のリボンが映える制服を着ており、チェックのスカートはかなりの短さである。神代高校以外の生徒だろうが、そんな事は問題ではなかった。
いつもならラッキーとでも考える乙夏だが、今はそれ所ではなかった。
「放せよ!俺、急いでるんだよ!」
女性には優しく、が信条の乙夏であるが、焦りのため強い口調になっていた。しかし女子高生は手を放すどころか、乙夏を引き寄せ耳元で囁きだした。
「あたしは、Q、Z、L、B、M、W、L、と書いて、QZL(クズル)‐BMWL(ビメヲル)。
あたしの本名が分かったら、助けてあげる……」
言うと彼女は乙夏の頬に軽く唇を触れ、「まってる」と言い残して乙夏を解放した。
「おい……」
乙夏はそれだけ言うのがやっとだった。
人混みの中心で、しかも初めて会った女性から頬にキスをもらったのだ。加えて言うなら意味深な言葉、と言うか乙夏には全く訳の分からない事を囁かれている。乙夏は完全に混乱していた。ただ、QZL‐BMWLと名乗った彼女の後ろ姿が心に焼き付いていた。
「なんなんだ、あの女……」
「なに?あの女!」
自然と口を突いて出た独り言に知った女性の声が連なってきた。
その声に乙夏の身体は素直に反応した。一瞬で背筋に冷たいものが流れてきたのだ。そして振り返るより速く、背後から乙夏の首が絞められた。
「今日はデートのはずよねぇ~
な・ん・で、逆ナンされてる暇があるのかな~
ん~?」
当然、乙夏に答える術もなく、苦し紛れに腕を振りほどく事がやっとであった。
「な……七月(なつき)っ!俺をっ殺す気かっ!」
そう、彼女の名は〈湊(みなと) 七月(なつき)〉。乙夏の幼なじみの一人で、咲夜と乙夏をつき合わせるきっかけを作った人物である。行動から しても男気質で、制服以外でスカート姿を見た事がないほどである。現に今もジーンズに黒のハイネックシャツ、その上からベストを羽織った姿での登場であ る。
「そんな事はど・う・で・も・いい!
咲夜を泣かせたら承知しないよっ!」
幼なじみの気安さの中に命令的な感を含ませた口調で投げかけられた言葉に、乙夏は先ほど以上に背筋が冷たくなるのを感じた。
時刻は一一時二〇分を既に過ぎていた。


☆   ★   ☆


「なんでついて来るんだよ……」
伊賦夜通りを抜け、乙夏は七月と並んで南口階段を下りていた。既に乙夏には諦めが入っているのか、足どりは牛歩の如く、と言ったところだ。
「そんなこと決まっているじゃない!
あ・ん・た・が、頼りないからよ!」
下手をすると唇が触れるのではないかというほどに、七月は乙夏に顔を近付け胸をつついてくる。七月は意識せずにとった行動なのだが、乙夏にはそ うもいかなかった。幼なじみとはいえ女性に顔を近づけられる状況には慣れていなかった。しかしそこはそれ、乙夏は強がり、頭突きさながらに七月に額をつ け、さらに胸をつつき返した。
「そっちこそ、その頼りない胸をどうにかしたらどうだ?」
だが、結果は推して知るべし。
「なにすんのよ!この馬鹿!」
乙夏は次の瞬間に階段の一番下で冷たい地面とキスをしていた。
しかし、この二人のやりとりが周囲の目には入っていなかった。階段を下りる人も上る人も、全員が要石の先に注目していたのだ。
南口広場の人という人全てが要石を中心に、一点を凝視するという異様な光景、それに乙夏と七月が気付いたとき、二人の時間は止まった。
「咲夜ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
乙夏は叫び、同時に七月と二人、走り出していた。目の前に広がる異質な空間に向かって。
そう、二人が出会うべき相手、八百威 咲夜が要石に磔となっていたのだ。十字架のキリストの様に両手足を貫かれ……
それは乙夏にとって全く現実とかけ離れた、別な世界の出来事のような感覚さえあった。
そう思わせたのは、何より磔の咲夜の傍らに佇む二人……いや、二体と言った方が適切か、漫画劇画の様なロボットが槍を構えていた事なのだ。
『いったい……何が起きているんだ……』
この時、乙夏は未だDWゲームの世界に投げ込まれている事に気付いていなかった。

(第一話『目覚め』了)

 

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2009年08月22日

【Real-Side】『プロローグ』

   それは、一人の少年の素朴な疑問から始まった。
「幽霊って、本当にいるの?」
その問に、大人達は笑い飛ばし、あるいは本気に受け取らず、冗談めかして『いるいる』と、やはり笑っていた。
本気にしない大人達を後目に、少年はただひたすらに本を読みあさった。
新旧の〈聖書〉、黙示録と呼ばれる数々の〈予言書〉、天使と悪魔が描かれた〈物語〉の数々、毛色を変えて〈精神医学書〉や〈科学雑誌〉……

挙げればきりが無いほどである。

しかし、少年にここまでさせるエネルギーの源とは一体何なのだろうか。
答は簡単、少年は見たのだ。

〈幽霊〉を……

いや、それは厳密ではないのかもしれない。
少年が選ぶ書物には何故か西洋的な幽霊、いや〈精霊〉が描かれていた。
猛禽類の様な翼と光輪を頭上に戴いた姿の精霊が……

おそらく無意識のうちに、書物に描かれた挿し絵と自分が見た者を重ねていたのだろう。
そして、少年はそれを知りたいと思ったのだ。
見た物を解き明かそうとするエネルギーと少年の興味は、次第に〈霊的な者〉の科学的解明へと転じていった。

そして二〇余年、少年は自分を笑い飛ばしていた大人達と同じ、大人となっていた。

少年は少年の心を失わず、霊的な者の別なカタチを見つけ、世界に貢献する事となった。

〈宇宙開拓航行システム〉……

人が地球の外へ出ていく為のシステムを図らずも完成させてしまっていたのだ。
これは、人の精神をデジタル信号化させ、一個の独立した、自我を持つプログラムとして、新たな人類へと進化するシステムだった。
少年は、霊的な者とデジタル化された精神体とは、同義の存在であると考えていた。そして、狭くなった地球で生活できる
と思い、〈地球内地球環境適応システム〉として、〈デジタルワールド〉を創造り上げた。
しかし、周囲の人間は汚染され尽くした地球を捨てようとしていた。そのため、少年の作り上げたシステムは、周囲の者達にとって渡りに舟、効果的な代物として映ったのだ。

そして、少年のシステムは流用された。

世界は、少年が想い描いた光景とはかけ離れ始めた。

システムは奪われ、組織の歯車の一つとなった少年は、もう希望を失っていた。
今はただ、システムのテストを行うために、哀れな生け贄をナビゲートするだけであった。


(第一話につづく)


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